平成27年国会審議にかかる安全保障法制への見解

    『平和と安全を求める被爆者たちの会』

         平成27年7月15日 「広報番号HA2017-07/2」


1.安全保障法制定に関する当会の立場

基本的には不満を残しつつも賛同する。

当会は昨年既に、同主旨の見解を政府へ提出し公開も行っているが、国会審議採決に当たって改めてここに表明する。

 

2.残した不満の内容

本質的に国家の安全保障とは、国内法では制御することの不可能な国際関係の中に生起する事態への対処方法である。さらに、その事態に即時の対応が出来なければ国家の存立が危うくなることは歴史上の事実が証明してきた。よって、当会は他のすべての国家が許容し行動する基準としている確立した国際法、国際慣習のすべてを我が国も実施可能にすることが当然だと主張してきた。当会のこの主張は、日本国憲法98条の②の要求である『日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。』に完全に合致している。しかし現在審議されている内容は依然として、「日本の国内法が第3国同士も含む国際関係に生起する事態を統御可能で、その見通し範囲でしか進展しない」という予言者的妄想を前提にしている。当会はこのような「集団的自衛権の限定的容認」というほんのわずかな行動にさらに縛りをかけたような法制では、我が国の安全保障にもたらす効果は非常に僅かであるという不満がある。しかしながら「泥縄でもやらぬよりまし」という程度の意味で、当会はこの法制にはまず賛同することにした。

 

3.集団的自衛権の本質の再指摘

昨年発出した表明意見にも述べたことを再度論述する。国家の自衛権に集団的と個別的とを表現したのは国連憲章51条が史上最初である。正確な意味は正文によって理解されなければならないのは、他のいかなる条約や技術規格類の要求するところである。日本語は国連憲章の正文ではなく参考文でしかない。正文の一つである英文では「the inherent right of

individual or collective self-defence」とあって「生来備わる奪うことのできない自衛権」として単数形のrightで表わされている。欧米言語での単数形と複数形の使い分けは厳格であって、誤使用は本質的な意味の変化をも招来する。一方、この箇所の日本語訳(非正文)は「個別的又は集団的自衛の固有の権利」とある。これは誤認の発生する余地のある舌足らずの訳だと言わざるを得ない。それはor(又は)の観念にある。「or」は数学的論理と同等の使い方がなされる用語であって、“AでもなくBでもない”以外のすべての場合を含んでいる。他方、日本語の「又は」は“AでなくBである”あるいは“AでありBでない”と解釈するのが殆どである。そして、AとBは別々の2つの要素だと認識される。日本語の理解が正当だとすれば、正文の表現は「the inherent rights of individual and collective self-defence」と複数形表現であるはずである。だが正文はそうではないので、「個別的にせよ集団的にせよ、不可分の一体となる固有の自衛権の構成要素である」と解すべきである。だが日本語の曖昧表現を前提にして、集団的自衛権を「保有するが行使できない」とか「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係を持つ国への攻撃に対して、反撃する権利」だとかいう国際的に見て珍妙な“論議”が日本では数十年間も展開されてきた。

元来、憲章51条のこの箇所は、非常事態発生の場合に国連安保理が対処するまでに時間的空白が生じる欠点があるのを懸念した、主として中・南米諸国の指摘によって作られた。因みに国連安保理の取る強制行動は「集団安全保障」という概念で自衛権とは異なる。さて、ある要衝の地に対する第3国の攻撃が発生したとして、その要衝の帰趨で安全保障上の悪影響を受ける関係国が、攻撃された国と共同して対処することは「介入=侵略」とはならない自衛権の範囲である、として正当な行為とされたのがはじめである。だから当初から「地理的範囲概念」も「緊密な関係を持つ国か否か」などの見当違いの概念はない。「自衛権」と言えば必然的に集団的と個別的が不可分に繋がっている。憲章以前から内包していた要因を明文化しただけのことである。現在の日本の“論議”は、特に反対野党とマスコミ等は「枯れ尾花」をゾンビに見せかける“努力”に傾注しているようである。集団的自衛権反対を唱える者が集団安全保障との違いを理解しているのか疑わせるような言説も耳にする。そういう者が「国連中心主義」を唱えているのは壮大な喜劇ではなかろうか。

 

4.責任の取れる論議をせよ

安全保障はリアルポリティックス(国際政治の現実)とインテリジェンス(精選され統合化された情報)から導き出される確度の高い状況予測を土台にして、自国の存立と平和及び国益を保持する方策を、国際法規の認めるあらゆる手段を駆使して構築する困難で高度な作業である。しかし、現在行われていることはこの両者とは無縁の、空想的国内法だけを根拠にして、妄想的結論を導き出して反対の満足を得ているようで、気楽なものだ。

「安全保障法制は憲法違反だ」と、例え憲法学者の全員が陳述したからと言って、中国による、南シナ海の違法な偽島建設と軍事基地化の進捗で、いわゆる「九段線」の領海化を実力で実行しつつある行為は止まらない。東シナ海のEEZ中間線上のプラットフォームの軍事化も中止されない。最早、尖閣諸島領海と周辺海域は中国艦船の自由航行領域となり、遂に奄美大島以南の南西諸島すべての領有権主張にまで踏み込んできた。中米とアフリカへの進出と自然破壊は押しとどめられない。ロシアの気儘な領土拡張も抑止できない。

2020年までに北朝鮮は最悪100発の核弾頭を保有し、既に日本全域を射程に入れたノドンミサイルに搭載される予測がある。核保有国は中国だけが弾頭数を増やし、多核弾頭ミサイルの配備に向かっている。北に対抗するために韓国には射程800kmのミサイル開発保有を米国は認めた。これが日本を狙わない保証はない。リアル世界ではこれらの脅威を受ける諸国から日本の行動を期待するようにもなっている。

にも拘わらず、政府が「隣の家に泥棒が入った場合に、泥縄を作れるようにしよう」というのに「いや、それは憲法が禁じているからだめだ」というに等しい愚論の応酬をしている間にも、危険は迫ってくる。

九段線が領海化され日本のシーレーンが閉ざされたら飢えるのは我が子や孫達である。その時は野党の先生や憲法学者諸氏が責任をもって原状回復してくれるのですか?

もし、裁判に付されたときに、国内法しか見ることなく(それが仕事だろうが)「違憲」判決をして、困難な事態に至ったら判事諸氏が責任をもって原状回復できるのですか? そうか!その時は皆々墓場に居るだろうから「後は野となれ山となれ」だったのですね!首相に

この件で意見される「被爆者代表」の方も同じだったのですね!この点は心から納得できます。

 

5.ドイツを見習え

環境問題で「ドイツに見習え」論が幅を利かせている。その顰に倣って安全保障法制の国際常識に適う形での進捗を期待したい。

1991年の湾岸戦争でドイツはNATOの一員として多国籍軍に参加するも、ドイツ自身の憲法解釈(NATO域外への派兵禁止)という自己規制から兵員はトルコの線までしか進出できなかった。この地点の範囲で各種の軍事支援に携わった。それ以外にも、保有するすべての対弾道弾ミサイル「パトリオット」をイスラエルに、ドイツだけが保有していた化学戦専用装甲車のすべてを米国に提供した。この装甲車は化学戦闘地域に進出して、乗員に影響させることなく、化学兵器の分析と地域の中和処理、装甲車の自己洗浄能力をもつ優れた能力があった。これだけの(日本なら違法非難が飛ぶ)作戦行動を行ったにも関わらず、戦後、ドイツの行動が能力を下回って非協力的だ、という猛烈な非難を浴びて外交的困難に陥った。そこでドイツ政府は即座に憲法裁判所を使って、「現行法規のままでも域外派兵を合憲とする」解釈変更を行い、次の議会で憲法条文の改正を行った。こうして現在は、ISAFに参加してアフガンでの戦闘行動にも従事している。ボスニア紛争では輸送機と武装部隊を派遣して在留外国人の救出を行った。救出では当然に牽制射撃を躊躇わなかった。

国際関係での地位喪失という国益の棄損と、憲法という国内法の解釈を天秤にかけたときに選択すべきが何かは言うまでもないだろう。ドイツについてもう一つ。

最初のG7でのプラザ合意では、日本の円とドイツのマルクを高騰させることが容認された。この結果、日本とドイツに駐留する米国将兵、特に下士官以下の下級兵に支払われるドルでの給与は実質価値が下がり、彼らの生活は困窮した。そこでドイツは教会が中心になって、困窮する下級将兵のために全国で募金活動を行った。ドイツは東西冷戦の最前線に立って、仮にワルシャワ機構軍が大挙ドイツ平原を進撃したら支えることはできない。米軍の自動介入が絶対に必要である。この事情からドイツ駐留の米軍はドイツにとって米軍の緊急来援を担保する人質だと考えていた。マルク高騰で苦境に陥った米軍将兵個々を救うことはド

イツの国益にとっては最重要だったのである。米軍は感謝した。人道主義と国益を同時遂行するとは「さすがドイツ」である。

一方、日本はと言えば円高騰での駐留米軍問題には一片の関心も寄せなかった。駐留将兵が日本での生活に支障を来さないために米軍当局は基地内に米国商店等を誘致して生活手段を基地内で完結させるようにした。このような対応の違いは一旦事が起こったときに将兵の志氣が異なって当然だろう、とは当時の米マスコミ関係者の感想である。

ドイツと日本の差を鑑みた場合、国家の統治行為を国内法の不備に優先させなければ国の生存、平和と安全は危うくなることを示している。安保法制は憲法違反だからまず憲法を改正してから法制化せよ、と主張する人々の大部分が護憲を唱えてきたことに唖然とする。私たちは欠陥憲法に拘泥して子や孫を危機に晒す政治家や憲法学者の視野狭窄言動を排除すべきだと考える。

 

6.安保法制は先取りされている。

現国会の観念論議にも関わらず、安保法制は現憲法のままで既に先取りされた実績がある。それは朝鮮戦争時の仁川上陸作戦の陽動として実施された元山沖機雷掃海作戦であり、旧帝国海軍軍人が参戦し戦死者も出している。占領軍の命令だから仕方がない、というのなら、憲法は占領されたら役立たずになることの自白だろう。安全保障を憲法が阻止するのなら、現憲法は自らの自殺を予定している。これが憲法平和主義又は「平和憲法」の正体。だから、そんな憲法の回りをうろうろするような「議論」のアリ地獄に入るのは時間の無駄である。憲法に欠陥があるからドイツに倣って統治行為を優先させよ、と前項で述べた。

                                              以上


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