令和4年 私たちの平和宣言
私達の平和宣言
令和4年8月6日 広島
あの日から77年、あの時を過ごした仲間も、原爆の痕跡も、残るものはわずかになりました。しかし、あの惨劇に出遭った私達、子どもであった私達、さらにその子ども達もまた、長い苦闘の日々を忘れません。人間の残骸を、人であった塊を、有り合せの木切れで荼毘に付し、日々の糧を求めてさまよい、あるいは負傷者を助けながら、やがて自身も不可解な体の変化で斃れていく。生き延びた人々は、人語に絶する苦闘を重ねながら子どもたちを育て、街の復興を成し遂げられました。そして日本全国で千を超える無差別爆撃は、60万人に迫る同胞を殺害しました。それは紛れもない「戦争犯罪」でした。
そして今また、ロシアはウクライナで無差別殺戮の戦争犯罪を実行しています。現代世界の平和と安全に責任を有する常任理事国が、不当な戦争を続ける理不尽は、私たちの信じた平和の秩序が崩壊し、国連が機能しない現実を見せつけました。リアルタイムで映し出される死傷者や破壊された建物は、あの日の私たちの姿と重なり、胸が塞がる思いです。
これは紛れもない戦争です。但し、ウクライナの戦いは、外国の占領に対して「自決の権利を行使して戦う武力闘争」であって、国際法が正当と認めるものです。他方、ロシアの核兵器使用の威嚇は、ロシア本土への反撃を防ぎ、戦闘がウクライナ領土に限定されるという、侵略側だけが有利になる状況を作りました。このことは、昨年1月に効力が発生したと主張する「核兵器禁止条約」が、現実には如何なる効果も発揮しないという事実を突きつけました。そして今年6月の「第1回締約国会議」は、ロシアを支持する少数の加盟国が反発しただけで、ロシア批判が悉く排除された最終文書が採択され、反核の名に値しない会議であると印象付けられました。
参加した日本の被爆関係団体が、核恫喝には目を閉じて「文書が採択されたこと」自体を会議の成功だと喜び称え合う姿には、私達は大きな違和感を禁じ得ません。
翻って日本を取り巻く状況は、ウクライナと連動しながら悪化しています。核兵器を搭載できる中国とロシアの爆撃機の編隊は、威嚇的に日本周回、北海道周回を繰り返し、台湾の防空識別圏には最大で百を超える攻撃機編隊が侵入しています。北朝鮮は核兵器とミサイルの増強を続けています。ロシアに占領されたウクライナ国民は自由を奪われました。中国は、香港において、ウイグル、チベット、内モンゴルにおいて、おぞましい人権弾圧を続けています。このような国の脅威に晒される日本にとって、対等の関係で平和を維持する安全保障には、独立国家固有の権利であって、国連憲章が推奨する、「集団的自衛権」の発展強化しか道はなく、憲法の改正は不可避です。「核兵器禁止条約」はすべての加盟国に、核兵器と関係物の全情報報告義務を課すため、日本が強化すべき日米同盟とは相容れず、日本の安全保障方策を根底から覆すのです。
脅威に曝された欧州は激変しました。中立国スウェーデンとフィンランドはロシアに対抗するためにNATOに加盟して核抑止力の傘下に入ります。スイスですらNATO加盟支持の世論が30%を越える状況です。一方で「核兵器禁止条約」加盟国には、中国の、香港やウイグル弾圧を支持する決議提出国が16も含まれます。先に述べた「第1回締約国会議」でICANは言いました。「日本の被爆者は失望している。被爆者や他国の話を聞くべきだ」と。私達は言います「異民族弾圧を支持する国が多く加盟する核兵器禁止条約には失望している。私達のような被爆者や、NATO依存を強めたドイツ、フィンランド、スウェーデンの話を聞くべきだ」と。もう幻想は終わりです。被爆者も様々です。広島市は「安全保障は国政で議論すべきものである」との公式見解を出しながら、それと裏腹の、日米同盟を棄損する「核兵器禁止条約」を推進する「平和行政」は不誠実です。
被爆者である父母たちは、苦難を克服して見事な復興を成し遂げました。そのことに対し、私達は深い感謝を申し上げるとともに、幾多の犠牲者へ鎮魂の誠を捧げます。皆様の、苦難を克服する心とその努力は、私達が引き継ぎ、日本の現実的な平和と安全を強化させることを誓います。どうか安らかにお休み下さい。過ちは“繰り返えさせません”から。
平和と安全を求める被爆者たちの会
※ 令和4年7月8日、安倍元総理大臣が回復の願い空しく、凶弾に斃れられました。我が国の安全保障と発展を最も重視された元総理のご意思の継続されることを願い、謹んで哀悼の意を表します。
令和3年 私達の平和宣言
私達の平和宣言
令和3年8月6日 広島
あの日の朝、突如広島を包んだ暗黒は、この街と夥しい人々を一瞬で破壊しました。史上初の原爆の犠牲者は14万人。戦争とは言え、百万人の死傷者を数えた無差別爆撃という「裁かれなかった戦争犯罪」を私達は忘れません。この地に残ったのは、音の消えた灰色の世界と生命の名残でした。一瞬で溶けた人間の亡骸、体全体に刺さったガラス、幼子を背負って息絶えた母親、瓦礫に埋まった人々、、、皮膚は爛れ、目は飛び出し、衣服は焼け、水を求め、助けを求めて彷徨う黒い人の群れ、、、この世の外の惨状が広がっていました。
私達は、この非道な原爆と無差別爆撃に斃れた方々に心からの鎮魂を捧げます。そして、極限の困難を乗り越え、焦土からの再建と発展に邁進された方々、さらに、被爆地にだけ適用される法律を作って、広島復興を支援された国民の皆さんに深い感謝を申し上げます。
廃墟と化した土地に留まり、焼け残った材料でバラックを建て、焼け跡を利用した一坪菜園のカボチャやナスで空腹を紛らし、闇市で乏しい物資を集めるぎりぎりの生活の中で、先人たちは復興に邁進しました。そんな境遇の中でも、自らに先んじた支援は、ここの復興こそが敗戦の惨禍に打ち勝つ証なのだとの固い信念の賜物であったと思います。本当にありがとうございました。
その後の国際政治は変転し、東西冷戦は激化して、核兵器の数と規模は大戦中とは比較にならないほど大きくなりました。国際対立は国内に持ち込まれ、平和への願いは社会主義国の核兵器を容認するか否か、核エネルギーの平和利用を認めるか否かという思想的対立に絡め取られ、原水禁運動は分裂し、政治闘争に変質していきました。
かかる状況を見た多数の被爆者たちは、運動から離脱していきました。マスコミが取り上げる「被爆者の意見」とは、決して被爆者全体を網羅したものではありません。
先の大戦は、核兵器があって起きたものではありません。従って、「反核平和」という言葉には論理的必然性がありません。「核兵器禁止条約」ですらそもそも平和を謳っていません。その前文は「武力紛争での核兵器の使用は、国際人道法の条項に反するから、使用できないように全廃する」という国際人道法を基礎にした論理が示されています。
国際人道法は武力紛争に適用される規則なので、「武力紛争の無い状態を平和」だとする広島市の思想は、この条約とは相容れないものです。にもかかわらず条約の批准を政府に要求するのは、没論理で無節操な「平和行政」だと指摘せざるを得ません。広島市は、現実政治の担う「安全保障」を時代遅れだと批判してきました。しかし、今まさに、専制国家、とりわけ中国による国際法と秩序の破壊が、我が国の、そして世界の安全保障の脅威だと誰もが認識しています。「中華民族の偉大なる復興」に、他国領域の侵犯や、不当支配、異民族の隷従があって良いはずはありません。不用意にも、強大な中国と「当事者同士の対話」にのめり込んだフィリピンは、支配領域を奪われ、忍従を余儀なくされている現実があります。そして新型コロナという疫病は、国境の重要性を再認識させました。国境の安全保障無くして平和と安全はありません。強大な軍事力を押出す中国を前に、独力での安全保障能力のない日本が、米国と同盟関係にあることを、7割以上の国民が支持しています。政府が批准に慎重なのは「核兵器禁止条約」には日米同盟を傷つける条文があるからです。広島市がそれを否定するのならそれに代わる現実的で具体的な手段を出して頂きたい。日本だけで国民の安全を守れないなら、インド・太平洋諸国と連携して専制国家を抑止することです。憲法平和主義を掲げて今日の安全保障に目を閉す所に、未来はありません。戦禍に倒れ、あるいは荒廃した国土を復興された先人の事績を継承発展させる義務を負う者として、私達は今、自らの安全と平和を守ります。過ちを繰り返え“させない”ために。
平和と安全を求める被爆者たちの会
令和2年 私たちの平和宣言
令和2年 『私たちの平和宣言』
令和2年8月6日 広島
今も蔓延する新型コロナの脅威に加え、全国の豪雨災害で、我が国は国難のただ中にあります。その犠牲になられた方々に、私達は深い哀悼の意を表します。そして、戦後日本の未曾有の困難を乗り越えた先人たちの足跡を想い、疫病の克服と災害復興を成し遂げたいと思います。
先の戦争では昭和19年半ばから本土への無差別爆撃が本格化し、その数一千四十回以上、死傷者は百万人を超え、罹災者は九百七十万人にも達しました。そして75年前の今日、原爆の灼熱と爆風は広島の風景を一変させました。崩壊した建物、、広漠たる瓦礫、、黒焦げの屍体、、体半分骸骨の亡骸、、生き延びても、溶けて垂れ下がった皮膚、、飛び出した眼球、、助けを求め、当て所なく彷徨う黒い塊、、それは人間であり私達の親であり兄弟でありそして我が同胞でした。
はっきりと名前を告げて死んだ少年、、全身を覆う包帯の中から「アメリカの馬鹿野郎」と叫んだ者、、母の眼の前で「死ぬのは覚悟しとったよ、お母ちゃんは泣いてはいけん」と最期の言葉を残した少年学徒、、、、年末までには死者十四万人になったと言われています。
最大多数の民間人殺害を目的にした爆撃、それを指揮した米国の将軍は言いました。「もし我々が戦争に負けていたら、戦争犯罪人として裁かれていただろう」と、、、我が国の戦後は、極東地域四十九箇所の、必ずしも公正ではない戦犯法廷で、日本人五千人の投獄と千人以上の処刑から始まりました。かかる国民への圧迫と犯罪的攻撃による荒廃した国土を前にして、私達の父や母、兄や姉たちは、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、街の復興に全力を尽しました。家庭を築き、まだ幼い私達を育ててくれました。私達が今あるのはそのお蔭であり、目の前にはその見事な成果が広がっています。本当にありがとうございました。そして、非道に斃れた数多の魂の安らかならんことを祈ります。
現在に生きる私達は皆様の成された渾身の努力を継承しなければなりません。そのために現実の国際政治の中で、我が国の平和と安全を守ることが絶対に必要だと確信します。
今日、北朝鮮は核兵器を実用化して我が国を威嚇しています。中国は軍備の大増強と南シナ海の違法な七つもの人工要塞によって、周辺諸国を圧迫しています。また、尖閣諸島への領海侵犯を繰り返して侵略の正当化を狙っています。沖縄諸島全体も標的となりました。これは中国が西太平洋全域に覇を唱える第一歩です。ロシアによる隣国侵略と領土の併合に直面した欧州諸国は軍事的対抗に踏み切りました。我が国が新冷戦の東側最前線に位置する時代が来たのです。
過去数十年の交易による相互依存関係は、平和と友好の期待とは裏腹に、中国の軍事的台頭を後押ししました。我が国の「平和主義」的心情とは正反対の姿です。平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、人や技術や経済の交流をすれば、温かく平和な世界が訪れるに違いない、、、こう思い込んできた「戦後平和主義」、それ自身が問われてはいないでしょうか?
今は辛くとも厳しくとも、あの原爆を投下した米国との同盟以外に、我が国が当面の平和と安全を保持する道がありません。しかしながら、三年前の「核兵器禁止条約」以来、我が国も条約に加盟するのが戦後の平和主義に叶い、被爆者の願望だ、と言われています。しかし、私達も紛う方なき被爆者と被爆二世として反論します。その条約は日米同盟を揺るがし、我が国の安全を脅かすかもしれません。核保有国が加盟しない条約が核兵器を無くせるでしょうか?憲法の平和主義だけで我が国は平和でしょうか?私達の平和には、自ら守る意思と能力を他国と同様に備える必要があると思います。私達は、そうした断固とした努力によってこそ、過ちを繰り返させない確固たる平和と安全を確保できると信じます。
平和と安全を求める被爆者たちの会
令和元年 私たちの平和宣言
令和元年 『私たちの平和宣言』
令和元年8月6日 広島
広島は、あの非道な原爆投下から74年目の朝を迎えました。目を開けば、美しく広がる街並みが見えます。しかし、目を閉じれば今もあの時の凄惨な情景が生々しく蘇ります。この二つの風景の甚だしい落差は、私達の父母兄弟たちが復興に注いだ、偉大な努力の証です。街や生活の再建に傾けた想像を絶する労苦を思う時、私達の心は大きな感動と深い感謝の気持に満たされます。そして、無辜の犠牲者たちの無念の嵐が、ひしひしと胸に迫ってきます。私達は復興を成し遂げられた皆様に対して、心からの感謝の誠を捧げ、偉大な努力を受け継ぎ、非命に斃れた方々の魂の安寧を祈り続けることを約束します。
昭和20年3月、日本家屋が効率的に炎上するように開発された焼夷弾による東京大空襲では、10万人の犠牲者が生きながら焼かれ、あるいは空気が無くなり窒息しました。米国に集まった科学者達は核分裂を爆弾に変える技術を開発し、最初の原爆を広島に投下しました。さらに3日後には、第二の原爆が長崎を破壊しました。
太陽も欺く閃光と、建物もなぎ倒す爆風は、人間を無差別に飲み込み、地獄の風景を出現させました。影だけが壁に焼き付けられて体が蒸発した人、骨まで曝け出された人、顔も形も留めぬ黒焦げの遺体、、、。無残にも人間の姿を失くした夥しい屍は、廃墟の一部と化しました。そして、生き延びた人々にも、さらなる地獄の苦しみが襲いました。その時は無傷に見えても、数日のうちに皮膚が腫れあがり、ほどなく死んでいった人達もありました。人々は、懸命の救助活動の中で、瀕死の重傷を乗り越える困難と、襲いくる緩慢な死への恐怖に直面し、それらの経験を私達に伝えてきました。全国各都市の爆撃でも、様々な形で生きるための闘いと復興への努力が繰り広げられてきたことでしょう。今、私達があるのは、皆様が恐怖を克服して注がれた血と汗と涙の賜物です。その力を、私達は次の世代に伝える努力を続けます。
歴史に特筆されるこの過酷な体験と、再建への闘いは正確に記録されなければなりません。それには、原爆攻撃を筆頭に、都市を襲った焼夷弾攻撃が何だったのかという認識が必要です。つまり、一般民間人を無差別に大量に殺害する兵器による攻撃は、もはや「戦争」ではなく「虐殺」である、ということです。当時も現在も、国際法では、戦争を「戦闘員」の資格を持つ者だけに制限しています。歴代の米国政府は、「100万人の連合軍将兵の生命を助けるために原爆が必要だった」と弁明していますが、これは「虐殺の正当化」に過ぎません。
核兵器は一発でも、瞬時に広範な破壊と大量の虐殺を行う恐怖の道具です。しかし、核兵器が消滅したとしても、それだけで戦争は無くなりません。最初の原爆投下のずっと以前から、世界には多くの戦争がありました。このことは、「反核」が決して「平和」を意味しないことを示しています。無差別殺害のための核兵器の使用は広島と長崎の後にはありませんが、今の核兵器は強大になり、技術は高度化し、種類は増え、その数も、保有する国家も増大しています。
核兵器国ロシアとの闘いにおいて、ウクライナは核兵器を放棄した後に重要な領土を奪われました。かつて旧ソ連の一員で核兵器を持たないジョージアは、国土の半分がロシアに支配されています。南アジアでは、敵対する二つの国が核兵器を保有して後、紛争は抑制的になりました。一方、東アジアや東南アジアでは、核兵器国中国が縦横無尽に核無き国を侵食席巻しつつあります。我が国の領土の一部も風前の灯です。ロシアは原子力で飛ぶ無限の射程距離を持つ超音速ミサイルを実用化しました。INF条約の制限を受けない中国は、最新技術を使った中距離核ミサイルを増強させています。北朝鮮は核兵器の完成によって交渉力を得たからこそ米朝会談に臨んだのです。
広島の原爆から74年間、私達は「核と人類は共存できない」というスローガンとは裏腹に、格段に高度化された核兵器の世界に生きています。オバマ前大統領は、核兵器廃絶を目標に置きましたが、同時に、「我々が生きている間には実現しない」と指摘しました。それが世界の実情なのです。それならば、当面の平和をどうやって維持するのか、私達の安全と生存をどのように担保するのか、世界各地で進行する紛争が、核戦争にならないためにはどうすれば良いのか、私達は懸命に知恵を絞って行動することが求められます。このような現在の世界の現状をつぶさに見れば、現行憲法の規定は独善的であり、阻害要因に満ちています。速やかに国際社会の常識に叶う方向に改正することが絶対に必要です。
一昨年は122ヶ国が賛成した「核兵器禁止条約の採択」が持て囃されました。我が国では、一挙に核無き世界が実現するかのごとき期待感までありました。しかし、この条約は現行の国際条約と対立的で、日本の安全保障の枠組みを破壊する欠陥を含んでいます。よって私達はこの条約加盟に反対です。今や、条約に賛成した国の態度も変わりました。サウジとエジプトは、イランとの関係で核武装意思を表明し、イランは保有する核設備で核兵器準備を始めました。
2019年4月現在、この条約が発効するために必要な50ヶ国の批准にはほど遠く、批准した国の数はその半数程度にしか過ぎません。また、仮に発効したとしても「核無き世界」は全く期待出来ません。それにも関わらず、条約への幻想と「核廃絶」スローガンとが結合して、我が国には安全保障を度外視する雰囲気が漂います。憲法を盾とする平和主義は、現憲法を狭量に解釈して、安全保障方策が現実に機能することを阻害しています。安全保障の土台無くして平和はあり得ません。私達は、他国の支配を排除して、迫る危険から私達の安全を守るのは私達自身であることを自覚します。正当な安全保障手段を持ち、今の平和をさらに堅固にして子孫達に渡すことが、被爆者に繋がる私達の願いであり、責務です。過ちは二度と繰り返させません。
平和と安全を求める被爆者たちの会
平成30年 私たちの平和宣言
平成30年 『私たちの平和宣言』
平成30年8月6日 広島
今年7月に西日本を襲った大水害は、ここ広島にも大きな爪痕を残しました。自然の猛威に畏怖しつつ、心から失われた魂のご冥福を祈ります。しかし、このような災害には屈しないほど強固で美しく整った街並みの大都会に発展した広島は、今もさんざめく人々の平和な日常が溢れています。73年前のきょう、昭和20年8月6日の朝、自然災害ではなく、意図を持つ人の手が落とした原爆の閃光と爆風は、一瞬にして命を焼き払い、日常を破壊しました。広島の街は黒焦げの屍が散乱し、川は死体で覆われ、家々は潰されて荒野と化しました。辛うじて生き延びた人々も、焼けただれた皮膚で地獄の中をさまよい、眼球の飛び出した人さえいました。そしてその痕跡は、今も私たちと共にあります。人々の受けた放射線や熱線の後遺症は今も癒されることはありません。街の真下、あるいは街を流れる川底には今なお焼けた地面、溶けたガラス瓶などが多く埋まっています。どんな言葉を尽くしても描き切れない地獄絵を作った原爆攻撃は、当時の戦争ルールを大きく逸脱して罪なき人々を無差別に襲った「戦争犯罪」と呼ぶしかありません。広島ばかりではありません。広島に続いて長崎が壊滅させられました。そしてまさにその時、きのこ雲の向こうには、鹿児島県西部を空襲した大きな黒煙があったのです。このように日本各地を立て続けに襲った無差別空襲もまた、紛う方なき戦争犯罪です。私たちは、原爆も、日本各地の空襲も忘れません。そして、すべての戦没者、とりわけ理不尽な死に追いやられた方々に、深い哀悼の心を捧げます。
しかし、極限の惨状から生き延びた人々は、灰塵の中から立ち上がり、団結し、想像を超える努力を注いで見事に復興を成し遂げられました。当時12歳の少年がいまわの際に絞り出した言葉の中には、当時の人たちの並々ならぬ覚悟と同胞への想いが表れています。
「お母ちゃん、泣いてはいけん。これだけ大きな戦争で、学徒の僕たちが生きておられることのないのは覚悟しとったよ・・・。お母ちゃんは人のためになる事を・・」
間違いなく日本の津々浦々に、この少年と同じ心根があったことでしょう。私たちは、これこそが、当時は想像もつかないこんにちの広島と日本の復興の原動力だったと確信します。
被爆直後から大変な努力を傾けて犠牲者を弔い、負傷者を救護し、電車を走らせ、生きる術を作ってきた広島。70年は草木も生えないと言われた原子野に草も生え、バラック小屋を建て、畑を作った広島。いわゆる「闇市」で、戸板一枚での商いから始めて、ささやかな日常を取り戻していった広島。早くも昭和28年には平和大通りが整備された広島。日本がまだ貧しく、広島市が資金に乏しい時に、経済界と市民が団結して寄付を募り、公会堂も野球場も建設し、広島カープの支援までやった広島。私たちは広島を立て直してきた人々のものすごい力に驚嘆し、尊敬し、心から感謝いたします。今、私たちはその広島の安寧を守り、先輩たちが注がれた復興の努力と、真の平和に向けた願いを受け継ぐ決意です。
昨年は、北朝鮮の核兵器開発の過程で特に重大な年でした。彼らは6回目の核実験で、広島原爆の10倍以上の威力を持つ水爆を手に入れました。日本の近くに着弾した多数のミサイル実験で、核爆弾60基を有する核戦力を実戦段階とし、ICBMは米国まで射程に捕えました。長崎原爆の日には「広島上空からグアム近辺に落とす」との恫喝的予告を行い、日本中が震撼しました。しかし、そのさなかに出された広島と長崎から発せられた平和宣言は、北朝鮮の核兵器へ言及することはなく、その2ヵ月前の国連総会で採択された「核兵器禁止条約」の称賛で溢れていました。広島市の宣言では「市民社会は、核兵器が自国の安全保障には役立たずだと知り尽くしているから、日本政府は、憲法の平和主義を体現するために、核兵器禁止条約の締結を促進し・・」と賛えました。しかし、「核兵器が役立たずだと知り尽くしている」との認識は、北朝鮮の核兵器の進展と中国の核兵器数の増加、英国の核兵器の更新などの事実をどう説明するのでしょうか。「核兵器禁止条約」には実に122ヶ国が賛成しましたが、それらの国は北朝鮮の核を止める行動をしたでしょうか。採択から1年が経過し、条約発効に必要な50ヶ国の調印は実現していません。原因は、条約前文及び条文内部、他の条約や国際司法判決との矛盾、そして第16条における「留保を受け付けない」という硬直性が関係していると思われます。今後発効したとしても、この条約が核兵器国を拘束する力は見えません。条約を推進したNGOの「ICAN」にはノーベル平和賞が授与されました。しかし、これに対する欧州の新聞の論評は冷ややかでした。曰く「世界平和、人間同士の愛情、大量破壊兵器のない世界―― この高潔なユートピアに誰も反論はしない。だからオバマ前大統領も『核兵器なき世界』を夢見たが、しかしすぐに現実によって否定された」と。核兵器は、特にその惨禍を知る私たちにとって、決して使用されてはならない兵器です。しかしながら、核兵器を保有する国は、決して他国から全面攻撃を受ける恐れがなく、かつ核兵器のない国に対しては核を背景に通常兵器の威力を高めている現実があり、少なくとも現代の国際社会における「役立たず」ではありません。
核兵器大国のロシアはクリミア半島を通常兵器で併合しました。今はバルト海の海軍力を強化しています。そのためICAN事務局長であるベアトリクス・フィン女史の母国であるスウェーデンは、中立政策を変更して周辺国との軍事協力を結び、男女の徴兵を復活しました。また、バルト海の要衝の島への駐留を開始し、国防費の増額も行っています。フィンランドは米国との防衛協定を結びました。同じく核兵器国である中国は、国際裁判での違法裁定を足蹴にして作った南シナ海7つの人工島を完全に軍事化して、沿岸諸国を圧迫しています。さらには2012年11月に開かれた中国、韓国、ロシアによる会議で中国代表は「日本は北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄せよ」と公式に演説し、「日本の領土を縮小する新たな条約を制定すべし」との提案まで行いました。そして実際、日本の尖閣諸島への侵犯と、沖縄諸島への海と空からの熾烈な侵食を繰り返しています。北朝鮮の「非核化表明」で始まった「米朝首脳会談」でしたが、中国とロシアの後ろ盾を得た北朝鮮にとって、いまやそれは米国の軍事圧力から逃れるための方便であり、「言葉」に対して「見返り」を要求するという昔からの戦術であることが濃厚です。新しい核施設や核物質生産まで報じられました。日本の核廃絶運動と被爆地平和宣言が、このような核兵器国による目の前の秩序破壊に目を塞ぎ、国際的に合法な日本の安全保障方策の手足を縛るのでは、平和どころか、日本国民を核の脅威に晒す結果になりかねません。核兵器廃絶のヒーローであったはずのオバマ氏は、「対中融和」で南シナ海の中国拡大と軍事化を許し、「戦略的忍耐」で北朝鮮の核開発を放任し、大統領として「北の核戦力を容認する選択肢」も承認していました。「核兵器廃絶運動」は、欧州の新聞記事の通り、誰も反論しない至高の人道的目標であることに間違いありません。私たちは、いや、私たちこそ世界の平和と繁栄を願っています。しかし、その願いと運動が存続できるためには、その国の平和と安全が確固として守られていることが絶対に必要です。ICAN事務局長の母国が、核兵器禁止条約に賛成票を投じたことと、核兵器国ロシアの圧迫から防衛するための軍事的措置とは何ら矛盾していません。だからこそ私たちは、日本の極めて異質な「平和を愛する諸国民の公正と信義」では安寧を得られないことを認識し、日々の実効的な安全の積み重ねこそが平和継続のための手段であると確信します。そして原爆被爆者とその二世、三世からなる団体の一つとして、広島安寧の基盤である「日本の確固とした安全保障」と、そのために必要な憲法の抜本的正常化のための改正を求めます。二度と「過ちを繰り返えさせない」ために。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
―― 広島平和ミーティング10年目の記念開催に寄せて ――
広島原爆の日の恒例行事に定着した、広島86平和ミーティングに協力して節目の年を迎えました。私たちの「平和と安全を求める被爆者たちの会」は、文字通り被爆者と被爆二世や三世及び賛同者が集まったものです。長く広島では(多分長崎でも)特定の立場と思考方向の「被爆者」の意見だけがマスコミが取り上げて世間に流布されてきました。しかし、被爆者である私たちの周りに居る多数の「同類」の方々が、世間的“意見”とは決して重ならないところが多いことを感じます。その象徴例が平和公園の「過ちは繰り返しません」の碑文です。
極東国際軍事裁判(東京裁判)の判事だったパール博士の違和感に碑文起草者の雑賀教授が抗議に及んだいわく付の文言です。平和記念館近くの本照寺住職が「私の寺の檀家も大勢原爆でやられた。『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いて頂きたい」と要望して、博士は揮毫しました。今も境内に「大亜細亜悲願の碑」が建っているのでその碑文を紹介します。是非お立ち寄りください。
「激変し変轉(へんてん)する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人々が万斛(ばんこく)の思いを抱いて死んでいつた しかし大地深く打ちこまれた悲願は消えない 抑壓(よくあつ)されたアジア解放のため その嚴粛(げんしゅく)なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸いあれ ああ眞理よ あなたは我が心の中に在る その啓示に従って我は進む」
平成29年 私たちの平和宣言
朗読の音声もお聞きください。
平成29年 『私たちの平和宣言』
平成29年8月6日 広島
あの夏の朝、瞬きのうちに、巨大な灼熱と暴風の塊が私達の故郷を飲み込みました。その時を、5千メートルの上空で一機の日本の戦闘機が体験していました。「広島の街並みを見た直後、突然の衝撃で機体は飛ばされた。必死に機体を立て直して地上を見たら・・街が無い!瓦礫しかない!」・・・と。幾万の同胞たちが街もろとも抹殺されていました。そして3日後の長崎もまた無残な姿になりました。
あれから72年。私達から2つの大切な事実が忘れ去られようとしています。その一つは、原爆に先立ち10万人が犠牲になった東京大空襲の目標が、軍事施設ではなく「東京市街地」だと明記されていたことです。原爆も、全国各都市の空襲も、明記された通りに、普通の市街地が標的になり、“幾十万もの無辜の人々が折り重なる殺戮”の現場になりました。もう一つは、決して、かの国の前大統領が述べたような、「雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきた」のではなく、原爆という「死を落とした人の手」があったことです。逃げ惑う子供達にまで、低空から機銃掃射をした多数の敵戦闘機もまた、「死を落とした汚れた手」だったのです。「戦争は軍人と軍人の戦いだから原爆は戦争ではなく、非戦闘員を殺す虐殺」でしかありません。戦争中であっても、人々には日々の営みの場があり、そこは攻撃してはならないとする国と国との約束がありました。しかし、躊躇うことなく虐殺は実行されました。焦熱は人間を焼き尽くし、閃光は影だけを石に焼き付け、爆風は建物を壊してもろともに人を砕き、ガラスは無数の弾丸となって肉体に刺さり、死なずとも肌は焼け、あるいは溶け落ち、破片は肉に食い込みました。人間の想像したどんな地獄絵よりも残虐無比な惨状には、表現する言葉すらありません。私達はここに改めて、皆様の無念の最期を想い、魂の安らかならんことを祈ります。
街は消え、遠くまで見渡せる音のない灰色の世界で、辛くも生き延びた人々は彷徨いました。死んだ子を背負う母や眼球が飛び出た人、黒焦げの負傷者を乗せたリアカー。爆心地から逃れ、黒く変色した人々の列は続きました。人々は無言で、前だけを向いて歩きました。しかし、その姿がいかに悲惨であっても、その歩みは、残された自らの力だけで踏み出した、明日に向かう偉大な一歩だったのだと思えてなりません。達者な者は救護に当たり、医師や看護師は懸命の治療を施し、犠牲者を探して助け、骸を荼毘に付し、動員学徒は不眠不休で電車を復旧させ、水道局の人々は破壊された浄水場のポンプを修理して被災者に水を届けました。長崎では必死の作業で鉄道線路が復旧され、一番列車が救助に向かいました。これらは皆、生き残った人々が死体と一緒に過ごした数日間の、色も音もない世界に蘇った復興の号砲でした。原爆は街と人の体を壊したけれど、心までは壊せませんでした。人々は再び生活を始め、手に入る物を商い、家を建て、驚異的な速さで廃墟は街に変わって行きました。私達の幼い記憶には、破壊された建物の鉄骨を修復する人々、道路を再建する人々、相協力して地域を整える隣近所の人々、そして子のために遊具を作る隣のおじさんやおばさんが居ました。それが私達の親や祖父母達の姿でした。現在の街が美しく整えられ、有機的に結合し、不足のない品物の数々を見るにつけ、あの時の皆様の懸命の努力に対して深い感動に満ちた感謝の気持ちが沸き上がります。本当にありがとうございました。そして私達は、皆様の偉大な成果を守り、発展させるべく今という時間を生きています。我が子を、我が故郷を、そして我が国を再び蹂躙させないことは、私達の大きな責務です。
今年、北朝鮮はミサイルと核兵器の威力を急速に向上させ、日本も無差別核攻撃の対象だと恫喝しました。中国は「核兵器は中華民族の尊厳」だと主張しています。さらに仲裁裁判所の裁定は紙くずだと罵って南シナ海の人工島を着々と要塞に変貌させ、周辺国や我が国を軍事的に威圧しています。
「核廃絶」をうたいあげれば危機は解消するでしょうか。オバマ前大統領は「あらゆる選択肢を排除しない」と警告しつつも、彼の「戦略的忍耐」は、北朝鮮の核開発を放任しました。「粘り強く対話し不正を糺す」政策は失敗しました。トランプ大統領はオバマ前大統領と同じく「全ての選択肢はテーブルにある」と言いつつ、日本海に艦隊を派遣しました。そして、艦隊のある間、北の暴発は一時的にせよ縮小しました。今年の7月、国連総会で「核兵器禁止条約」が採択されました。しかしながら、核保有国のどの一つとして条約に同意せず、同意した122ヶ国中の102ヶ国は北朝鮮と国交がある国々です。それらの国々が、これまで北朝鮮の核廃絶を実行させる力を発揮したことはなく、条約は加盟国だけを縛ります。条約を後押しした平和首長会議、そこに参加する核保有国の都市もまた、自国の核兵器を制限させたことはありません。この現実から、私達は条約に実効性はなく、歓迎もせず、日本の不参加は当然だと考えます。なぜなら、我が国は国民の平和と安全を守るため、核保有国との連携を含むあらゆる手立てを尽くして核兵器による惨禍を防ぐ立場を取る責務があるからです。「核廃絶」、私達はその美しき願望を否定はしません。しかし、我が国の現在は近隣諸国の核兵器抗争の只中にあり、「核兵器禁止条約」では目の前の危機を排除できません。かつて、いわゆる「被爆者代表」が日本国憲法の独特の解釈を根拠に首相に対して我が国の防衛政策の撤廃を要求しましたが、それが金正恩氏の行動を抑制したでしょうか? オバマ前大統領主導の「イランとの核合意」は、一定期間の核開発凍結など甘い合意だったので、専門家の予測通り、サウジが反発して湾岸諸国はイランとカタールとの断交に踏み切りました。性急な綺麗事外交が罠に嵌る実例です。日本の危機が現実になった今、核兵器にこだわるあまり、私達は反核平和主義を掲げて現実逃避の外野の観戦者となってはならず、国際法の認める抑止力の保持までも否定すべきではありません。安全無くして平和はない、厳しい国際政治の現実の中で、広島も、日本各地も、理不尽な攻撃を抑止する手段を備え、住民の安全を守る行政こそが最優先されるべきなのです。私達は、「反核平和」の矛盾を見据え、実効的な平和実現の道を求め、渾身の力で復興された偉大な先人の遺産を守る決意です。未来を託す子孫のために、そして「過ちを繰り返えさせないために」。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
平成28年 私たちの平和宣言
平成28年 『私たちの平和宣言』
平成28年8月6日 広島
71年前の今日、雲一つない晴れた朝、1機の爆撃機が、広島市とそこに暮らす10万人以上の普通の人々に、瞬時の破壊と死をもたらしました。その3日後には長崎でも同じ悲劇が繰り返されました。灼熱の閃光と地を這う炎は、生き延びた人々にも一生消えぬ傷跡を残しました。後に首相になった鳩山一郎氏は終戦直後に、「正義は力なりを標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ないであろう」と昭和20年9月15日の新聞で訴えました。しかし米国の回答は、新聞の発行停止という、米国を批判する言論の封殺でした。
71年後の今年5月27日に、オバマ合衆国大統領は「何故今、広島のここに来たのか?遠くない過去に使われた恐怖の力をじっくりと考えるためだ」と今更ながらに言われました。しかし、考えるまでもなく事実は一つしかありません。私達の先人は恐怖の力が使われた直後から、傷ついた身体を押して同胞助け合い、死者を弔い、言葉も及ばない程の並々ならぬ復興の努力を重ねて今日の広島を築き上げたのです。私達は先人への深い感謝と、犠牲者達への心からの追悼のためにここに居ます。私達は、謝罪する、しないということを問題にしているのではありません。オバマ氏には、貴方の国の大統領が遠くない過去に、重大な罪を犯したことだけを直視して、胸に刻んでいただきたい。これが私達の回答です。
被爆後わずか3日で市内電車を走らせた動員学徒の不眠不休の努力は、惨禍を前に茫然と佇む人々に、いかに勇気を与えたことでしょう。保険会社は、被爆直後から凄惨極まる市内で、保険金の支払いを始めました。保険証券も、死亡証明書も無いのに、母印だけで請求通りの保険金が受け取れたのです。これがいかに人々に明日への糧と希望を与えたことでしょう。心身の傷がどんなに深くても、真面目で慎ましく、崇高な姿で立あがった皆様は、同胞手を携え、緑深き山と、清らかな川と、瀟洒な建物が見事に溶け合った街並を再建して下さいました。その心、創られたもの、すべてがかけがえのない贈り物だと胸に刻み、永遠に感謝し守り伝えることが、今を生きる私達の務めです。
長崎には「焼き場に立つ少年」がいました。唇をきつく結び、幼い兄弟の亡骸を背負い、裸足のまま直立不動で焼き場の過酷な現実に堪え、やがて遺体が荼毘に付された後に一礼してその場を去りました。その写真を撮った米国人カメラマンは、後に故郷で写真展を開きました。訪れた人々の中に、この少年の姿を見て泣かぬ者はいませんでした。救護班の手当を受けて横たわった人々も次々と死んで行きました。しかし、その人々と並んで寝るのも恐れぬ忍耐を示した人々の精神は、核兵器でも焼き払うことはできなかったのです。
現在、日本は、さらに強力な核兵器を持った国々に囲まれています。その数は増え、軍艦や飛行機は昔とは比較にならない破壊力を備えました。しかし当時9歳であった「原爆語り部」が、自分では見てもいない“日本軍の蛮行”を中学生に語っています。一部の被爆二世にはこれをそのまま続けようとする人もいるようです。いったいその人達には、現実世界で今の日本が受けている強烈な軍事的圧迫は見えないのでしょうか。目には映っても、憲法9条を枕に、核廃絶を子守歌にしていれば、日本は戦争と無縁でいられるとでもいうのでしょうか。刻々と、現実の危険は迫っています。
核兵器を持つロシアはクリミア半島を奪い、シリアの民主勢力を爆撃しました。北朝鮮は、経済が破綻しているにも拘らず3種類の核ミサイルを開発して米国本土まで射程に入れました。核兵器をもつ中国は、日本の領空を防衛する戦闘機に一触即発の攻撃体制を取りました。日本の領海を3日と空けず侵犯し、遂には堂々と軍艦を繰り出しました。国際法を犯して他国の領域を埋め立て、7つもの偽の島を作り、「浮沈空母」としています。
このような情況が、果たして話し合いで解決出来るでしょうか? 2010年9月、中国は尖閣諸島を自国の領海に組み込み込んだと発表し、2012年9月には「日本の公務船や自衛隊が魚釣島海域に入れば『侵入』になる」「外国の軍事船舶が魚釣島海域に入るには、中国政府の認可を得なければならず、東シナ海の境界線確定をめぐる日中間の話し合いの余地はなくなった」と言い放ちました。さらには南シナ海の領有を巡る国際仲裁裁判所の判決を「紙屑」と蔑み、島の造成を止めないと公言しました。全ての9条信者の皆さん! あなた達の妄言は6年以上も前に破綻しています。
オバマ氏の広島演説は、人類の高みに立った美辞麗句で飾られていましたが真実もありました。「人類誕生で紛争が生まれた」「人類は製造物を人間攻撃に使った」「科学の発展は殺人マシンに転用された」「国家や同盟は、自らを防衛する手段を持つ必要がある」「核兵器のない世界を追求する勇気を持つべきだが、生きているうちには実現しない」・・これらの言葉は皆、今ある世界の現実を述べています。しかし、引退間際の大統領には何も約束はできません。プラハ演説とは異なり、そこには「同盟国を守る決意」はありませんでした。出迎えた4人の被爆者の方が大統領に抱擁され、涙した姿にある種心情的な共感は持てるとしても、このような感情の思い入れこそが、「反核・平和の失敗」の原因ではなかったでしょうか。抱擁の最中でも、オバマ大統領の手には「核のボタン」があったことを忘れてはなりません。
私達はオバマ氏の語った「人類の真実」に共感します。氏は「これから起こる戦争」とまで言いました。これらの現実を直視して、自らを守る覚悟を固め、実効的な行動を重ねて行くことが今を生きる日本人の務めです。渾身の力で復興された先人のために、未来を託す子孫のために、そして「過ちを繰り返させないために」。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
Our Declaration for Lasting Peace in 2016
August 6, 2016, Hiroshima
On this day, seventy-one years ago, on a bright, cloudless morning, a nuclear warhead dropped by a US-bomber plunged Hiroshima city and its innocent people into destruction. All of the city, along with far over one hundred thousand human lives, were destroyed in a split second. After only 3-days, Nagasaki city also fell to same hair-raising fate. Even the people, who fortunately survived this great catastrophe, were forever scarred physically and mentally by the burning flash of light and the engulfing flames, which proceeded them. “America can not deny that their usage of the atomic bombs and their great many murders of innocent Japanese are war crimes, much more brutal than poisonous gas attacks or an attack on a hospital ship, because they assert that “ … Justice is their Power.” said Mr. Ichiro Hatoyama to the Japanese press just after the Great East War on 15 September 1945. He became the prime minister of Japan several years after the end of the war. The U.S. occupation forces answered by the press ban to suppress any criticisms of the U.S.
This year on 27 March, as many as 71 years later, U.S. President Mr. Obama said, “Why do we come this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible forces unleashed in a not so distant past.” However you, Mr. Obama, need not ponder anything. The fact is one. Just after a terrible force was unleashed, our predecessors saved themselves and others in cooperation and mourned and prayed for the victims in spite of injuries of themselves. Today, Hiroshima city has been rebuilt completely by extraordinary efforts of them. We are now here to offer our deepest gratitude to them. We are also now here to mourn for all the indiscriminate bombing victims. Now, we do not care whether Mr. Obama does or does not apologize for the casualties. Mr. President, we just hope that you understand and remember the vast war crimes that two former US-presidents have done in not so distant past. This is our answer. Not a press ban!
Mobilized students worked without rest and sleep, and moved the tramcars only three days after bombing. It is impossible to say how much the bewildering people in the horror were encouraged by seeing the moving tramcars. Insurance payments started just after the bombing of the wholly destroyed city. The casualties and their families were able to receive these benefits freely by only their claims and fingerprints without any identification or death certification. These first steps taken by our predecessors undoubtedly gave the people hope and a staff of life for the future. You, our parents, sibling and relatives, who were the most modest, honest and high-minded took actions to save them and collaborated in spite of your deep damage of mind, and completely rebuilt our city with a beautiful harmony of the green mountains, clear rivers and elegant buildings. Your heart to act and all of your creations are the paramount presents for us, to be etched in our mind. We are obliged to gratitude for you and protect your gifts forever.
In Nagasaki, there was a young man known as “a boy standing at the crematory”. They said that the boy, with a dead little brother on his back, stood at attention with bear feet, closing tightly his lips, as if facing up to the hard facts. After the cremation, he bowed once and disappeared. An American cameraman who took the boy’s picture held the photo exhibition later in his home country. Everyone could not avoid tears looking at the boy’s photograph. The people who received treatments by the rescue team were laid and many of them died one after another. However, the nuclear weapon could not burn down the spirits of people who could bear lying along with dead people.
Nowadays, Japan is surrounded by countries who possess more powerful nuclear weapons. Both their numbers and powers are increasing. The advancing destructive ability of warship, air fighters and so on are far more powerful than before. A speaker of the atomic bombing experience talks to junior-high school students about so-called “atrocities” by the former Japan Forces. However, the speaker could never experience them, because he was only 9 years old at the end of the war. Some second-generation the atomic bomb victims are succeeding such a role to tell the same non-experienced story to younger generations. Why on earth could these people not open their eyes to the real world that Japan is oppressed firmly by total military powers? Do they believe that Japan should be free from the international struggles while they fall asleep using article 9 of the Constitution as a sound pillow and using “NO NUKE” as a lullaby? Worldwide real perils are just now creeping upon us.
Russia, one of the countries permitted to possess nuclear weapons, robbed Ukraine of the Krym peninsula two years ago and recently executed an air-attack over the sphere of Syrian democratic people’s area. North-Korea, considered to have some nuclear weapons having their economy collapsed, succeeded in 3 types of ballistic missile shots recently. As a result, even the U.S. have become within the effective range of their missiles. China-Beijing, another country permitted to possess nuclear weapons, has taken the offensive targeting to the fighter planes of our Japan Self Defense Forces (J.S.D.F). They continue to violate the territorial waters of Japan almost every day. Today, at last, their warships are cruising unlawfully inside of our territorial waters. They have been stealing foreign territorial sea zones. They have reclaimed islands from the sunken reef and made “the fake islands” into unsinkable aircraft carriers, in violation of international treaties. Today, seven of these “fake islands” have already been made over the South China Sea.
Can we overcome these troubles by negotiation only? China-Beijing announced one-sidedly in September 2010 that Senkaku islands, which obviously belong to Japan, are included in their own territory. In September 2012, they announced a high-handed assertion that “If Japanese official ships or J.S.D.F enter the sea area around Chogyo (Japanese; Uoturi) island, these acts constitutes the invasion.”, and “In case the foreign military ships enter the sea area around Chogyo island, they must accept China Governmental permission.” “There has been no room for discussion about the border in the East China Sea between China and Japan.” The Chinese government disputed the recent judgements by the International Arbitration Court about the procession in the South China Sea as wastepaper. Moreover, they declared that they do not cease to reclaim islands from sunken reef. To all followers of “the article 9”! Your thoughtless remarks had led to failure more than 6 years ago.
Mr. Obama’s Hiroshima speech strung together all sorts of flowery words from the viewpoint of high human morality. However, we also find the humanity’s real truth in his speech: “Violent conflict appeared with the very first man.” “Used these tools not just for hunting, but against their own kind.” “Science allows us to -----. But those same discoveries can be turned into ever-more efficient killing machines.” “We may not be able to eliminate man’s capability to do evil, so nations --- and the alliances that we’ve formed --- must possess the means to defend ourselves.” “But among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear, and pursue a world without them. We may not realize this goal in my life.” He never lost a realistic human truth. However, the president just before retiring can not promise anything. A serious paragraph in Czech-Prague speech have vanished in Hiroshima speech: “Make no mistakes: As long as these weapons exist, we will maintain a safe, secure and effective arsenal to deter any adversaries, and guarantee that defense to our allies.” Four “Hibakusha” greeting Mr. Obama were tenderly embraced by him and dropped tears from their eyes. Although the scene might bring sympathy to not a few people. These emotions have been the cause of failure by “No Nuke or Peace”. All people must not forget the fact that the button launching nuclear missiles remained in Mr. Obama’s hands even when he was hugging the four persons.
We do react to humanity’s real truth in his speech. He referred to “the wars that would follow” as well as “that terrible war, and the wars that came before”. Considering these truths, we must possess the means to defend ourselves and must take the necessary actions to do so. These are our primary obligations to the Japanese. For our parents, sibling and relatives who have reconstructed Japan with all their might; for our posterity to whom we entrust the future of Japan, we must ever prevent such an illegal atrocious error!
“The society structured by survivors of the atomic bombs and their relatives to seek peace and security”
平成27年 私たちの平和宣言
平成27年 『 私たちの平和宣言 ~占領後63年間の虚構を見据えて』
平成27年8月6日 広島
一瞬の熱線と爆風で斃された広島と長崎20数万の命、それに先立つ焼夷弾の火炎で一夜にして断たれた東京10万余の命、日本各地の空爆で殺害された幾10万の命。昭和20年8月に至る半年あまりの絨毯爆撃は、まさしく空前の戦争犯罪でした。その悪魔の所業から70年。二つの原爆から生き延びても、被災者は苦痛と恐怖に苛まれ続けました。不法な攻撃に晒された人々の心から、私たちの父母兄弟達の気持ちから、非難と嘆き、恨みと屈辱が消えることはないでしょう。
井伏鱒二は、当時の広島を『空鞘町あたりにくると火焔が街を一舐めにしたことがわかる。上半身だけ白骨になったもの、片手片足以外は白骨になったもの、・・・・千差万別の死体が散乱して異様な臭気を発している』1)と書きました。長崎では、『あるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。780余人のうち達者な者も150人以上はいたのだが、10日ぐらい経ったころにはばたばたと死んで行き完全に生き残った者は20人ぐらいに過ぎなかった』2)と記録されています。その場を共にした皆様は、「あの醜悪な情景は、攻撃者が醜悪だった表れだ」と認識しておられたのです。『人々は阿鼻叫喚の気配を押さえ、死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐と、極度の慎ましさ』3)を示しながらも、死にゆく人は「兵隊さん仇を取って下さい」と末期の言葉を残したのです。しかし9ヶ月後の長崎は、『立ち並ぶ復興住宅、人々で賑わう市場、倒壊した天主堂、頭に包帯を巻いて無心に遊ぶ少女の姿もある』4)と報道されています。皆様は、地獄絵の渦中にあって互いを助け、不屈の精神を持ち、秩序整然として、わずかな期間で復興の基礎を拓かれたのです。今日の繁栄を享受している私たちは、ここに皆様の思いと、艱難辛苦を胸に刻み、頭を垂れ、改めて深い感謝と心からの慰霊の誠を捧げます。本当にありがとうございました。
しかし、日本が言論の自由を奪われた7年間の占領で、戦争犯罪の真実は隠され、犠牲者の心の叫びは封じられ、開戦から原爆投下、敗戦までの真実は勝利者だけの正義の物語に置き換えられて行きました。非道な犯罪を隠滅して、日本だけを断罪しました。それから63年、世の中には「戦争を風化させるな!」の声が溢れています。しかし、戦争の真実とは何だったのでしょう?戦後70年とは、私達にとって本当に節目の年なのでしょうか?
昭和19年、英国の大臣は『米国が戦争に追い込まれたというのは甚だしい歴史歪曲である。米国があまりにひどく日本を挑発したので日本軍は真珠湾で米国をやむを得ず攻撃したのである』5)と述べました。開戦時に米国下院議員だったある人は『ルーズベルト大統領とコーデルハル国務長官は、日本に意図的最後通牒を送った。』6)と述べています。彼はまた、「日本には、自殺するか、降伏するか、戦うかの選択しかなかった。米国政権の戦争推進派は、日本軍の攻撃を知りながら真珠湾に警告しなかった事実が漏れると、対日最後通牒を始めとした種々の事実を隠すための大規模な作業を行った」6)とも記しています。大西洋横断飛行で知られるリンドバーグは、『12月8日;日本の奇襲攻撃は別に驚くに当たらぬ。我々は何週間にもわたり、彼らを戦争に駆り立てていたのだから』7)と日記に記しています。米国が「真珠湾の前から裏口からの参戦」をしていたことは、既に広く知られています。
清国末期のアジア大陸は、日本を含めた列強諸国の勢力拡大行動が交錯し、遅れて来た米国は「門戸開放・機会均等」を旗印にして、勢力争いに割り込んできたのです。特に、清国発祥の地である満州は「世界に類例のない極度に複雑な問題がある」8)といわれた地域でした。米国は、日露戦争後にロシアの利権を引き継いだ日本の南満州鉄道に露骨な食指を伸ばしましたが、交渉は決裂。これが日米の大戦の遠因となって行きました。第二次大戦中のポツダムの会談では、『トルーマンは成功確実になるまで核開発を進めてソ連抜きで日本を降伏させようと考え、チャーチルは早く原爆を使って欧州中心部へのソ連の進撃を阻止しようと思い、ソ連は漁夫の利を得るために米英が力を消耗してから参戦するつもりでした。結局米英は、ソ連勢力を阻止するために、日本を原爆の犠牲にした』9)のです。政治の延長としての戦争は、当事国が平和時以上に外交駆け引きを展開します。英国はドイツのポーランド侵攻を理由に参戦しながら、不利になったら米国に助けを求めました。一方、ルーズベルト米国大
統領は、「参戦しない」公約で当選していたので中立国の義務を放棄し、秘密裡に国民党を軍事支援して日本に先制攻撃をさせる策略を実行しました。これが先の大戦の姿です。ドイツと協定してポーランドを抹殺したソ連と妥協した英国も、分け前をぶら下げてソ連に日本との中立破棄を誘った米国も、その餌に食いついたソ連も、国家として普通の不誠実さがあっただけです。日本占領直後から、マッカーサーは一人の日本人も、一人の憲法学者も入れない配下の私的チームで「即席憲法案」を作りました。それはGHQの意のままに日本官僚により訳されました。そしてその占領軍は、この憲法施行後に「交戦権の否定」を無視して日本人を朝鮮戦争に出撃させ、「言論・出版の自由」「検閲の禁止」「通信の秘密」も無視して、報道・出版の統制と検閲、私信の開封を行いました。「遡及処罰の禁止」は、東京、横浜裁判で完全に踏みにじられました。勝利者の正義の物語を広めたのも、日本だけを裁いたのも、この自ら作った憲法を破壊して行われたのです。この憲法は、最初から虚偽にまみれています。現代の東欧や東アジアの海などの国際秩序破壊への危険に対処する法案を、かくも汚れた憲法に違反
する、というだけで、我が国の行くべき道は言わない憲法学者は、不誠実を通り越して滑稽です。「被爆者代表」を僭称する人が首相に対して集団的自衛権を非難すれば中国は横暴な秩序破壊を止めるでしょうか?原爆が戦争を終わらせたから“被爆者に感謝しろ”という「はだしのゲン」は、明らかに日本各地の爆撃死者を冒涜しています。私たちは、63年間の勝利者の物語に幻惑されて、古文書と化した憲法に囚われた「反核平和70年の失敗」を克服しなければなりません。私たちの平和は先輩達との心の絆を回復し、国際政治のリアリズムをしっかり見据えて、独立国の名誉に賭けて自らを守る体制と覚悟を持つことに尽きるのです。過ちを繰り返させないために。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
引用文献一覧
1) 「黒い雨」井伏鱒二 新潮文庫
2) 「坂本町民原子爆弾殉難の碑のご案内」 平成18年8月坂本町山王自治会(長崎市)
3) 「海底のやうな光-原子爆弾の空襲に遭って」大田洋子 朝日新聞 昭和20年8月30日
4) 「原爆復興の長崎 息吹伝える;戦後70年記憶の中に」産経新聞 平成27年6月17日
5) 「忘れたことと 忘れさせられたこと」江藤淳 文春文庫
6) 「日米開戦の悲劇」ハミルトン・フィッシュ、岡崎久彦監訳 PHP文庫
7) 「リンドバーグ 第二次世界大戦日記」新庄哲夫訳 新潮社版
8) 「全文 リットン報告書」原文付属;渡部昇一 株式会社ビジネス社
9) 「HIROSHIMA NAGASAKI the real story of the Atomic bombings and t heir aftermath」
PAUL HAM transworldbooks.co. UK
――― 平成27年 私たちの平和宣言 ――― に関する補遺
序
今年の報道は「節目の戦後70年」が強調されているが私たちはその視点に違和感がある。占領軍が歴史の軸心を力で歪ませた7年間を単純合計した年数だからである。歪んだ軸に接ぎ木されての63年後が今年だと自覚すれば、幾分かは目の鱗は落ちる。よって今年は報道に流されないために、宣言文の含意をすこし掘りさげ記述して補遺とすることにした。
近現代史は、確定させる程にはまだ「枯れて」いないから、歪んだまま枯れる前に軸を正さねばならない。進行中の安全保障法制で憲法違反と反対する論者は歴史が確定的に「枯れた」と信じて異見を受け入れない不思議な「民主主義者」のように見える。私たちはこの方面からは侮蔑的に「歴史修正主義」と呼ばれる。しかし、昨年8月の朝日新聞記事取り消しのように通念は修正される。昭和30年代始めの千田夏光氏の新造語に始まる「従軍慰安婦物語」は通用しなくなった。歴史の軸をまっすぐに矯正するために私たちは今後も誇りをもって「歴史修正主義」を続ける。
1. 私たちの立場
私たちは、近代国家成立以降の我が国の諸行為のすべてが理に適った正当なものだ、という立場には立たない。と同時に諸外国に対しても公平に同じ対応を取る。すべての国家は相応の不誠実さを備えているのである。そして、それこそが国家関係を円滑にし、対立を極限に至る前に緩和し平衡を保ってきた面がある。一つの事例は“外交官に対して、受け入れ国はいつでも理由を示さずに追放することができる<ペルソナノングラータ>”(外交関係におけるウィーン条約)に顕れる。個人間では不可解な規定だろうが、理由を明示すべきだったら、国家の名誉は棄損され極限事態に陥るかも知れない。「理由は貴国の胸に聞け」あるいは「我が国のシグナルを見よ」の婉曲表現である。国家がそれなりに不誠実であることは歴史に揉まれた深い意味がある。ただし成熟した国家同士の洗練された手法であり、覇権争いでは騙し合いに繋がる。
2. 日本の悪魔化
先の大戦後の占領政策で日本は100%の悪になった。歴史でそんなことはあり得ないが、今日まで多くの日本人は信じている。しかしそれはパズルの重要なピースを変形した、「だまし絵」である。だから私たちは専門家達と共に、我が国の弁護を続けなければならない。日本人だから。
3. 原爆犠牲者とその他の爆撃犠牲者、そして「はだしのゲン」
日米戦の初期に連戦連敗の米国は志氣高揚のため、1942年、米空母から爆撃機B25、16機を発艦させ東京、名古屋、神戸などを無差別空襲して国民党の米空軍基地(シェーンノート部隊)に着陸した。これが日本空襲の始めである。これは後に比較して小規模だが、沖縄戦に先立つ1945年3月、334機からなるB29大型爆撃機は東京の住民地区を焼夷弾爆撃し、一夜で10万余を殺害した大規模攻撃である。酸欠に依るものだという。使用焼夷弾は日本家屋を効果的に燃焼させるべく開発されたものである。以後、民間人を標的にした主な空襲だけでも大阪、関東、京浜、横浜、名古屋、再度の東京、呉、神戸、福岡、富山……意外だが京都5回。それぞれB29、100~250機余の規模で縦横無尽の殺戮が繰り返された。既に、降伏講和の申し出のある中での攻撃が続いた。原爆攻撃が不要だったのは、後のアイゼンハワー大統領も明言した通りである。しかし、原爆投下まで戦争を引きずったのはトルーマンの対ソ思惑な
のは明らかになってきた。そうであっても、原爆だけを特別視するのは公正か?それを戦争一般の「倫理問題」に矮小化した責任は占領政策に幻惑された日本にあり、反核団体同士の抗争にもある。被爆犠牲者の無念は切々と胸を割く。だが他の爆撃犠牲者の無念も同じなのだ。「はだしのゲン」が少年雑誌に排除され共産党と日教組の雑誌が掲載を継続して以降、「日本人は被爆者に感謝しろ!原爆のお蔭で戦争狂の天皇や資本家は命が惜しくてポツダム宣言で戦争をやめた」と書く書物は祖国と爆撃犠牲者を踏みにじっている。これを「平和教育書」とする限り、歴史軸の歪みは戻らないし「平和」も泣く。
4. 平和と安全について
安全保障を否定する現憲法は、日本を自殺へ導く可能性を持っている。これを「平和憲法」と呼び、浅薄な“キレイゴト”の「戦争の愚かさ、平和の尊さ」を鐘太鼓で囃しても、仲間内での一時の興奮以外には世界が唱和することはない。私たちはこの異質で異常な憲法を戴けば、世界がひれ伏すと考えるほど「大国主義」ではない。ハミルトン・フィッシュは前掲書で『ルーズベルトが「真珠湾攻撃が恥ずべき行いの日」と呼ぶのならば、ハルノートは「恥ずべき最後通牒」と呼ぶのが適切だ』と述べている。中国が今も清国時代同様の「元来清国政府と事を商定するは、かつて英行使サー・ハリー・パアクスが比喩したる如く無底の釣瓶を以て井水を汲むが如く何時もその効なく・・」(蹇蹇録<けんけんろく> 陸奥宗光著 岩波文庫)の性質が続いているのは、最近の行動からもわかる。今後も日本の「憲法平和主義」の欺瞞がわかる事実が出てくるだろう。だから私たちはそれらを観察し、各国それなりの不誠実さと行動を常にチ
ェックし、勢力バランスを保つ不断の努力をする方策以外の「他策なかりしを信ぜんと欲す」(前掲書)るのであって、それだけが将来の可能性に繋がるのである。
Our Declaration for Lasting Peace in 2015
; Staring at the utopian story of 63 years after the end of Occupied Japan
August 6, 2015, Hiroshima
More than 200,000 vivid lives were thrown into the death in a split second. The intentional nuclear attack brought the solar-like super high heat wave and the gigantic blast beyond description to this massacre at Hiroshima and Nagasaki cities. Preceding this disaster more than 100,000 people running around to escape died in only one night through the flames caused by great many large incendiary cylinders dropped in Tokyo residential areas by many US-Bombers. More than several 100,000 lives were lost to other continual air-raids all over the Japanese cities. (Have a moment of silence please!) The atomic bombings and such carpet bombings constituted war crimes undoubtedly, breaking international law which was committed on innocent Japanese non-combatants mainly in merely half a year till August, 1945. Even 70 years after, those people who have survived from such a heinous atrocities by the two Atomic Bombings are unable to escape from anguish and fear in their bodies and emotions until now. Our fathers, mothers, brothers and sisters could not, the people who were exposed to unlawful attacks could not, have removed from the bottom of their heart; the criticism, resentment, mortification and humiliation experienced at that time.
The late Masuji Ibuse, the novelist described the scene when Hiroshima collapsed and fell into ashes. “Around Sorazaya-cho, they found the fire blaze licked these district. Various shapes of dead bodies were scattered. Upper parts of the body had burned into bone. Only one hand and one leg are left in its own shape barely and the remainder is skeleton. The surroundings filled with awful stench emitted from these human’s bodies everywhere.”1) In Nagasaki, a record shows “some are dying, some just between life and death are groaning in pain, and strong ones are attending casualties very enthusiastically. Among 780 people, more than 150 people were in fairly good condition at first, but in the next 10 days, people started dying one after another and finally, just about 20 people survived.”2) The people who experienced the same ordeal understood that this horrible landscape was the mirror of the heinous action of the attackers themselves. Under this extreme circumstance, while “people endured shrieking in agony and scariest hell of sleeping alongside corpses in the utmost humble manner,”3) people ascending to heaven left a cry of “please do retaliate… Mr. Soldier,” a voice from their very final state of mind. But just 9 month later, a report said in Nagasaki “we can see now numbers of reconstructed housings, busy market with many people, wrecked cathedral, and a girl with bandage on her head.”4) You helped each other under that Hell, kept your dignified and indomitable spirit, acted in the manner of orderly deeds and then opened up the base for reconstruction in such a short time. We shall express our sincere gratitude and pay our deepest respect to you. We are now blessed with the prosperity as your posterity. We will engrave in our mind your volition and thorny path and tribulations firmly. And we hereby politely bow our heads and say “We thank you from the bottom of our hearts.”
But now, there are the facts that we do not have to forget. Seven years of our occupied period which removed the freedom of speech in Japan hid the true story of the war crimes. The shouts from the spirit of the victims have been silenced. And all the truth from the war’s outbreak, then the Atomic Bombings and to our defeat, had turned into just stories made up by the occupation forces themselves. They kept hiding their crime of inhumane actions, but only accused Japan. 63 years since the end of occupation, a phrase “Do not let the war memory be gone!” is now heard everywhere in Japan. What exactly was the truth about the war? Can we really say that the 70th year after the war is our own anniversary?
In 1944, an English Ministry statement noted “The general perceptions are that the U.S. was forced into the War but this is an extremely false representation of history. The U.S. have provoked Japan into the war extreme harshly, which led Japan to have no choice but to attack Pearl Harbor.”5) A man who was a U.S. Representative at the time of the war’s start had published about his experiences in the political world later saying that “President Roosevelt and Secretary of State Cordell Hull issued an ultimatum secretly to Japan with clear intention.”6) He then added “Japan only got to choose either one from suicide of the states, surrender, or to start the war. When the facts began to leak out that the U.S. Government did not warn the garrison of Pearl Harbor even though they received advanced information on the attack, pro-war faction members in the Roosevelt administration started drastic actions to conceal various facts including such an ultimatum.”6) Charles Augustus Lindbergh who is famous for his transatlantic flight wrote in his diary “December 8th; the Japanese surprise attack should not surprise me, because we Americans had actually been instigating Japan to start the war for many weeks.”7) *1 It is widely known that the U.S. had already “entered the war from the backdoor before Pearl Harbor” after all.
The Asian Continent at the last stage of the Qing Dynasty was the territorial competitive target of the great world powers including Japan. The U.S, which was lagging behind, later jumped into the race under the slogan of “Open Door and Equal Opportunity Policy.” In those days Manchuria, the birthplace of the Qing Dynasty, was a well known area in the report presented to the League of Nations as “there are many features without an exact parallel in other parts of the world.____ They are, on the contrary, exceedingly complicated, and only an intimate knowledge of all the facts, as well as of their historical background, should entitle anyone to express a definite opinion upon them.” 8) The U.S. tried to initiate a blatant advance to The South Manchuria Railway, the company which Japan took over from Russia after the Russo-Japanese War, but the negotiation between Japan and the U.S. broke down. And that became one of the underlying causes for the Great War between Japan and the U.S. later. At the Conference in Potsdam during WWII, “Truman intended to make Japanese surrender without any support from the Soviet Union by developing nuclear weapons to a successful level; Churchill intended to stop Soviet Union’s advance to the middle of Europe by hastening the Atomic Bomb drop; Soviet Union intended to join the war to obtain profit while the U.S. and U.K.’s interest started to wane at the later stage of the war…”9)*2 All these facts suggest that the U.S. and U.K just tried to protect themselves from the Soviet Union’s advancement at the expense of Japan with the Atomic Bomb.” The war demand more serious political tactics for the countries involved than during the ordinary times. The U.K. made a war declaration to Germany against its advance into Poland, but started to ask for help from the U.S. when the situation became tougher withdrawing from Europe’s main land and leaving Poland as it were. In spite of President Roosevelt promise to stay out of war which was a main factor in order to be elected as The U.S. President successfully, he actually supplied military assistance to the Chinese Nationalist Party by abandoning the pledge to be a neutral power, with covert tactics to instigate the Japanese to start a preemptive attack. This is the true picture of the Great War, U.K. shook hands with the Soviet Union which had terminated the existence of Poland by making an agreement with Germany; the U.S. lured the Soviet Union to break its nonaggression pact with Japan by dangling dividends in front of its eyes; the Soviet Union took this bait; these are just the scenes showed that the almost all the usual nations possess their own dishonesties.
After the Occupation of Japan, the Supreme Commander MacArthur soon formed a working group including no Japanese and no constitutional experts to produce an “impromptu Constitution draft” under his supervision. It was then translated by American staff and Japanese bureaucrats who were bound to the GHQ’s intention. And the Occupation Army dispatched Japanese former soldiers to the Korean War ignoring “Un-recognition of the right of belligerency of the state” after the enforcement of this Constitution. The clauses of “Freedom of speech, press and all other expression,” “No censorship shall be maintained,” and “The secrecy of any means of communications” were all ignored and the GHQ initiated strict control and censorship of all the press and publication, and private letters were opened. The stipulation of “No person shall be held criminally liable for an act which was lawful at the time it was committed” was also completely crushed at the Tokyo and Yokohama Trials. Spreading a utopian story of justice by winners, Japanese and none of the ‘Allied Forces’ members were judged for war crimes… they were executed along with an overriding the Constitution which was invented by winners. This Constitution still working and the current Construction could be described as filled with falsehoods from the beginning. Therefore, it is beyond being dishonest and rather comical for the constitutional scholars who only repeat the word unconstitutional (Constitution itself is deformed) about a bill aiming to deal with the dangerous situation towards destruction of international order continuing in Eastern Europe and waters in East Asia, and instead propose utterly no suggestions what path our country should take. Do you really expect China to stop their aggressive distortion of the international order if the falsely self-proclaimed “Atomic Bomb Survivors Represents” voice against the inherent right of collective self-defense to the Prime Minister? The comic magazines as an effective educational book of peace “Barefoot Gen,” who encourages people to worship Atomic Bomb victims because that Atomic Bomb ended the war is an obvious insult to the bomb-shell victims all over Japan. We must now overcome the “Failure of 70 years of anti-nuclear peace activities” which is the result of both the 63-year dazzle from the unilateral story created by the victors, and antiquated Constitution which has bound the people’s mind still now. Our peace is achieved only when we recover the mental connection with our ancestors, square with the reality happening in the international politics, and be determination to establish a system and the resolution in order to protect ourselves upon our honor as an independent country. And to prevent ever repeating such an illegal error!
“The society structured by survivors of A-bomb and relatives to seek peace and security”
http://www.realpas.com/
Quotations
1) “The black rain” Masuji Ibuse Shinchou Library
2) “Monument information of the victims by the Atomic Bomb in the Sakamoto town residents” August 2006 San-nou neighborhood self-governing body Sakamoto-town Nagasaki-city
3) “The light like bottom of the sea---encountered the air-raid by Atomic Bomb”
Yoko Ohta Asahi newspaper 30 August 1945
4) “Reconstruction in Nagasaki from the Atomic Bomb; Memory in mind 70 years after the end of War” Sankei newspaper 17 June 2015
5) “Things to have forgotten and enforced to have forgotten” Jun Eto Bunshun- Library
6) “Tragic Deception” Hamilton Fish PHP- Library
7) “Lindbergh Diary in WWII” Charles Augustus Lindbergh; translated by Tetsuo Shinjo
Shinchou Company
*1 This expression is translated from Japanese, and so it will be possibly deferent from those of the original .
8) “the Report of The Commission on Enquiry” Business Company
9) “HIROSHIMA NAGASAKI the real story of the Atomic bombings and their aftermath”
PAUL HAM transworldbooks.co. UK
*2 This expression is summarized the long original sentence.
平成26年 私たちの平和宣言
平成26年 『私たちの平和宣言』
平成26年8月6日 広島
忘れもしない原爆攻撃から69年。二個の原爆は、一瞬にして10万以上の無辜(むこ)の人々を殺戮(さつりく)し、灼熱(しゃくねつ)の嵐の後には、茫々(ぼうぼう)たる焦土と、夥(おびただ)しい数の犠牲者が残されました。その極限の惨禍(さんか)にあってなお、生ある人は互いに救護し、励まし、死に臨む人には末期(まつご)の水を与え、看取(みと)り、そして骸(むくろ)となった同胞を野辺(のべ)に弔(とむら)いました。攻撃を免(まぬか)れた人々は手段を尽くして焦土に赴(おもむ)き、犠牲者を救助しました。皆様の秩序整然たる態度、身を挺(てい)して為された無数の行為に顕(あらわ)れた、気高(けだか)くそして不屈の精神は、私達の大きな誇りです。歳月は皆様の大部分を彼岸(ひがん)の彼方(かなた)に旅立たせたとはいえ、万骨(ばんこつ)の発する慟哭(どうこく)と、努力の足跡と、達成の誇りは、今なお私達の心に響き、胸は張り裂けます。私たちは、静かに頭(こうべ)を垂(た)れ、限りない鎮魂と感謝の念をここに捧げます。
現在、米国は自国外での活動を大幅に縮小し、世界各地で果てしない紛争が増加しています。シリアでは悲惨な内戦が続き、イラクは国内の対立で国家崩壊の瀬戸際(せとぎわ)にあります。ロシアのクリミア半島併合と、続くウクライナの内戦は、ロシアからの天然ガス供給に依存する欧州から事実上容認され、ウクライナに依存するインドの防衛力整備が遅延するためにインド洋を不安定化させ、我が国にとって間接的脅威となっています。イランの核兵器開発問題は、米国・欧州と中国・ロシアが対立して、核を容認するかホルムズ海峡を封鎖させるかの選択を迫られ、我が国にとっては直接的な脅威です。そしてアジアでは、中国が南シナ海周辺国に軍事力を駆使(くし)して横暴な覇権(はけん)拡大を進め、我が国の尖閣諸島への挑発は激化の一途です。北朝鮮のミサイル、核兵器開発もまた然りです。今や、世界の平和と安全を保ってきた微妙なバランスは崩れ去り、安保理常任理事国自身が国連で果たすべき責任を忘れて自国のことのみに専念する世界が現出しています。
戦後、私達が戴(いただ)いてきた日本国憲法に書かれた「平和を愛する諸国民の公正と信義」や「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならい」という理想はどうなったのでしょう。実は、私達が理想と掲(かか)げてきた平和主義とは、当初より戦後我が国を占領した軍司令官が極秘に発した虚構の産物であったことが、歴史資料により明らかになっています。日本国憲法が作成される前、占領軍司令官が日本に対してだけ発した極秘指示文書には、「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高(すうこう)な理想に委ねる」とあり、この指示はほぼそのまま日本国憲法に組み込まれました。しかし、当の戦勝諸国は戦後すぐに戦前の勢力圏を回復させるべく軍事力を行使しています。フランス、オランダは東南アジアの、英国は世界各地の旧植民地を、ソ連はポーランドとフィンランドの領土を、米国は太平洋諸島を手中にするべく行動しました。また、占領軍司令官は大戦当時には存在しなかった罪を東京裁判の直前になって制定し、連合軍の犯したあらゆる犯罪行為を不問(ふもん)にして、日本人だけを断罪しました。戦犯リストの作成を命じられたGHQ幕僚のソープ准将ですら、その裁判は「戦争を国策の手段とした罪は戦後に作られたものであり、偽善的なリンチ裁判用の事後法だ」と述懐(じゅっかい)するほどでした。そして、占領軍司令官であったマッカーサーもまた、Their purpose, therefor, in going to war was largely dictated by security.(したがって、彼らが戦争に向かった目的は、大部分が安全保障のためであった。)と米国議会で証言しています。
私達は、戦後長い間平和と繁栄を享受(きょうじゅ)してきました。しかしこのまま日本だけが罪をかぶせられ、その判決を鵜呑(うの)みにしたまま国際社会の現実から目を背(そむ)け続けて現実性のない「盲目(もうもく)の平和(へいわ)主義(しゅぎ)」を戴(いただ)き続けることは、戦禍に倒れ、廃墟を復興させた先人の皆様の努力の成果を崩壊させるものといわざるを得ません。米国は、沖縄戦の直後から日本が降伏の意志を伝えていたにも関わらず、原爆攻撃を実施しました。東京大空襲では、一夜にして原爆を上回る数の人々を斃(たお)しました。そして原爆も東京大空襲も、非戦闘員に対する無差別攻撃という点で明確な国際法違反です。国際的には、戦争といえども、国際人道法という時間をかけて積み上げられた国際法のルールに拘束されます。東京大空襲の指揮官は、自分が戦争犯罪人だと自覚していました。平和教育に祀り上げられた「はだしのゲン」は、断罪する相手を間違っています。さらには、米国は真珠湾攻撃より5ヵ月も前に日本本土爆撃を計画・承認したこと、日本は原爆投下より前に降伏意志を示したことを無視して、戦争の実態を歪めています。そこには、被爆者だけを特別視して国家を否定し、原爆以外の犠牲者を貶(おとし)めんとする「選民(せんみん)思想(しそう)」すら透けて見えます。
憲法がいかに「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と宣言しても、国際法は国内法に優先するため、各国の行動を規制することは出来ません。そして国際法は、交戦権を含めて各国主権の至高価値を認めています。さらに、世界各地で自国の安全と繁栄を守るためにあらゆる努力が続けられています。そもそも国家間の争いと戦争は、核兵器の登場以前から続いており、たとえ核兵器がなくなることがあっても世界から国家間の対立や争いがなくなることはないでしょう。私たちは、「記憶を風化させるな」と言うことばで被爆者だけを平和の殉教者(じゅんきょうしゃ)に仕立て、また、他者に補償を求めるだけの存在となることを拒絶します。他(ひ)人任(とまか)せの「核兵器廃絶」を唱えるよりも、世界の現実と国際法の規定に目を開きます。風化させてはならないのは、一般市民の無差別(むさべつ)殺戮(さつりく)、そして被爆直後の死に臨む犠牲者達が発した「兵隊さん仇を討って」「アメリカのばかやろう」などの末期(まつご)の心情です。誰を恨(うら)むでもなく、黙々と都市と国家の再建を果たした人々の足跡(そくせき)です。祖国の安全無くして独立は無く、独立無くして平和もありません。私達は、我が国と私達の子孫のために、「盲目(もうもく)の平和(へいわ)主義(しゅぎ)」の虚構(きょこう)を克(こく)服(ふく)し、もって我が国が、真に永続的平和と安全確保に向かうよう努力することを誓います。
過ちを繰り返えさせないために。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
平成25年 私たちの平和宣言
平成25年8月6日 広島
あの日から68年。その時眼前に広がったものは、人類がかって経験したことはおろか、想像だに及ばないこの世の外の情景でした。情景の醜悪さは、同じ力で反撃される怖れなく原爆を投下した側の醜悪さです。地上には、筆舌に尽くしがたい破壊の惨状を眼前にしながらも、明日の復興に向い、渾身の力を振絞って生きぬかれた皆様の姿がありました。その姿を想うとき、私達は寂として声もなく、ただ心を打たれるばかりです。我が国では、戦乱や災害に遭っても人々は暴動や犯罪に走ることなく、助け合い、死者を弔って困難を克服してきました。東日本大震災で世界の称賛を浴びた我が同胞の矜持は、皆様から脈々と受け継がれた魂の発露です。原爆投下のわずか三日後に、決死の覚悟で広電を運行させた「広島電鉄家政女学校」の若き乙女達の姿は、受難者達を悼み、原爆瓦礫に手ずから格闘する人々に、限りない勇気を与えたことでしょう。空前の惨状にも挫けなかった精神は、原爆を凌駕しました。私達は、その皆様、すなわち私達の祖父母、父母、家族、友人達に慈しみ育んで頂いたお蔭で、今日ここに立っています。
そして現在、私達は新たな困難に直面しています。北朝鮮は、今年3度目の核実験を強行しました。そして、我が国全体を射程に収める核ミサイルを配備し、遂には我が国の都市名を挙げて核攻撃の意図を露わにしています。私達が三度目の大虐殺を受ける恐れが現実的なものになりました。中国は、その北朝鮮を国連で擁護し、南シナ海を制覇し、侵攻の触手を尖閣諸島から沖縄にまで伸ばして我が国に対する挑発を繰り返しています。韓国は北への備えを名目にして、我が国を攻撃できる射程千Kmのミサイルを配備しました。そして虚構の歴史を弄び、我が国への敵意ある宣伝を世界で繰り広げています。さらに、北アフリカから中東一帯の動乱、イランの核兵器保有への動き、アフガンの内戦と、世界秩序は危険に晒され、諸国からの平和維持部隊は数少なく、平和回復の兆しすらありません。
国連はますますその機能を失い、力だけを信奉して利益を得んとする幾つかの国は、この変乱の中で身勝手な口舌を弄し、私達の祖国を蚕食しようとしています。
私達は、このような他国を蹂躙し抑圧することで己が利益を得んとする国々のエゴイズムに対して、敢然と立ち向かわなければなりません。
しかし、私達の努力を敵視し妨害するものがあります。それは「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会(が存在し)、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼(すれば)われらの生存と安全(が保持できる)」という迷妄です。これは、我が国の敗戦後に占領者が植え付けた、未だ見ぬ物の怪の世界観に他なりません。これに幻惑された、あるいは確信的な我が国特有の奇怪な「平和主義」者達は、熱心に原爆の悲惨さを強調し、私達が本来持つべき自立自尊の精神に基づく真の平和をねじ曲げ、皆様の崇高な魂を覆い続けて来たのです。彼らは、北朝鮮には一編の抗議声明を出しただけで後は静かでした。彼らは中国の侵略的な挑発には反応せず、我が国が防衛体制を整えることを危険視します。彼らは「核兵器を廃絶すれば平和になる」と言いますが、核兵器以前にこそ大きな戦争のあったことを語りません。彼らは「戦争になったら山に逃げる」と答える児童生徒を称えますが、辺境の山奥で生き延びる覚悟も方法も示しません。反対に彼らは「殺すより殺される方を選ぶ」と唱えて死ぬことを称賛するまでになりました。平和とは、国家の自由と独立を保持し、国民の生命と財産を守る力を基礎にして築かれるものです。だから、理性を弁えた諸国は自国の自由と独立を防衛するために、憲法で国民に「国防の義務」を求めています。我が国の奇怪な「平和主義」は、平和の基礎を破壊するものでしかありません。
私達と皆様は、今や幽明境を異にするまでの時を経ましたが、私達は「刀をくれ、やっつけてやる」「兵隊さん仇をとって下さい」などの数々の末期の言葉に顕れた皆様の怒りや憎悪を胸に刻み、皆様の秩序整然とした不屈の魂を我が誇りとし、我が心に満たします。そして私達は、銃もて戦う勇者の歴史にも学びます。
第一次大戦では、進撃するドイツ軍に対してルクセンブルクは一枚の協定書を読み上げて抗議しましたが、国土は瞬時に蹂躙されました。先の大戦では、ナチスに侵攻を企てられたスイスでは、数十万人のスイス軍兵士が動員され、「スイス人の血と肉を出来るだけ高く、ナチスに売りつける」との総司令官の言葉に応えて、塹壕に潜み、全滅するまで戦う気概を示しました。長大な戦車柵と無数の地雷も備えました。このスイスの構えと備えこそが、ナチスの侵攻を未然に防いだのです。中立国フィンランドには突如ソ連の大軍が攻め込みました。フィンランド軍は寡兵をもって大部隊を殲滅させる戦果を挙げ、ソ連軍を損耗させ進撃を停滞させました。フィンランドはこの勇猛果敢さの故に、戦後も独立を維持できたのです。
スイスの構えと備え、フィンランドの奮闘、そしてルクセンブルクの敗北こそが、私達に平和の何たるかを教えています。それは、力無き理性と暴力が対峙したとき、理性の側が敗北すること。理性に力が備わったときに初めて暴力の側に理性を呼び起こすこと。そして、暴力にはそれと同じ力で反撃できるだけの力を備えなければならないことです。我が国を犯さんとする国々の持つ力は何か、奇怪な「平和主義」に力を与えている物は何か、それを考えたとき、私達がなすべきことは自ずと明らかです。
自国を敵視して「平和を愛する諸国民」を盲信する愚かな「平和主義」こそが、我が国同胞の平和と安全への最大の加害者です。彼らは全被爆者の代弁者として発言しますが、それは大きな偽りです。内輪だけで盛り上がり、何の効果も無い空想の言葉を叫び、自己陶酔と異論の排除に執着し、あの惨状を克服した皆様への感謝と鎮魂を忘れた「ヒロシマの平和」は終わらせなければなりません。
世界秩序が危険に晒され、変動しつつある現代は、世に常無きものは無いと、我が祖先達が夙に達観していた姿です。そして我が国は、悠久の古代から式年の再生によって変化に立ち向かう力を産み出して来ました。伊勢と出雲の社がまさに再生せんとするこの年、我が国平穏の時代は終わり、私達は新たな覚悟をきめる時が来ました。内なる迷妄を解き放ち、迫り来る外なる暴力への備えを固め、もって皆様から頂いたこの自由で独立した祖国を、子孫に渡すことが私達の務めです。どうか皆様、彼岸の彼方から、あの原爆を乗り越えた不屈の魂を私達に届けて下さい。「過ちを繰り返えさせない」ために。
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
平成24年 私たちの平和宣言
67年前のあの日、
非道なる原爆で一瞬にして残虐で理不尽な死に直面した方々、
そして3日後に同じ運命に直面した方々、さらには無差別爆撃の
あるいは機銃掃射の、艦砲射撃の、標的になって死に追いやられた
わが国各地の方々・・。
夥しい犠牲者は今もってすべてを数え上げることすらできません。
あれは誤爆でも偶然でもありません。あなた方は狙われる謂われのない
無辜の人々でした。あなた方は私たちの父母、祖父母あるいは兄弟たちでした。
惨禍の中、肉親を、同胞を求めて彷徨い、精一杯の手当てを施し、
逝く者に寄り添いました。こうした努力を続け、
そしてかろうじて生き延びた方々は力をふり絞り、
原子砂漠を美しい街に蘇らせました。
歳月はこうした方々の多くも旅立たせて行きました。
そして今、私たちはあなた方に心から感謝の気持ちを捧げます。
「刀をくれ、やっつけてやる」と見守る人に求め、国歌を歌い、
「母ちゃん」と呼びながら、被爆後一日あまりで短い生涯を閉じた中学生・・
朝5時の汽車で通学して勉学と土木作業に邁進した少年・・
大阪爆撃の瓦礫から遺体を掘り出す作業に携わってから広島に移り、
被爆死した少年・・
20キロ以上の道のりを歩き、
炎上する広島の街に入って我が子を探し歩いた父や母・・
爆心地の防空壕で負傷なく難を逃れながら
直後に救援活動に当たったために受けた放射線障害で、
10日あまりのうちに全滅した長崎のとある町の人々・・。
兵士、警察官、教師、民間人、そして子供達までが、
未曾有の惨禍にあってなお秩序整然として、
同胞相助たすけ合った数々の姿を思うと、
私たちの胸は張り裂け涙が止まりません。
国は負けましたが、心は負けなかったのです。
強い心を持ち、空前の悲惨さの最中でも
他者に分け隔てない慈愛を注ぐことの出来たあなた方は、
私たちにとって最大の誇りです。そしてその精神と行動を受け継ぐことが、
私たちの責務であると信じます。
今、私たちには危険が忍び寄っています。
北朝鮮は核爆弾を一層高度化し、弾道ミサイルの射程は伸び、
既にわが国は完全にその攻撃範囲に入りました。
彼らは「我々は堂々たる核保有国であり、強勢大国への道に入った」と呼号し、
米国まで届くミサイル保有まであと一歩の段階です。
中国は、その北朝鮮に弾道ミサイル運搬車両を供与していました。
北朝鮮制裁決議をした責任ある安保理常任理事国でありながら、
平然とそれを犯しているのです。核拡散防止条約は、
核兵器国である中国自らが義務を破ったことで無意味な存在になりました。
中国はまた、通常兵器を質量ともに過去10年で3倍以上に増強させ、
南シナ海全域を軍事的に制圧し、わが国固有の領土である尖閣諸島の奪取は
秒読み段階に入りました。
さらには沖縄本島にも魔手が忍び寄っている兆候があります。
中国の核弾頭の推定保有数はこれまでの200発が3000発以上と
大幅に上方修正されました。
なす術を失っているわが国の足元を見たロシアは、
北方領土問題を無視し去るようになりました。
韓国では、前大統領時代に密かにウラン濃縮を行っていたことが発覚しました。
そして、現政権与党の有力議員が記者会見で核武装の意図を公言したことが、
現地では肯定的に報じられています。
そしてわが国の核廃絶主義者達は、「原子爆弾は中華民族の尊厳」
と公言する中国に対しても、核攻撃能力を日々強める北朝鮮に対しても、
驚くほど静かです。反面、すべての核兵器保有国が行うはずの未臨界実験では、
実験を公表する米国にだけ非難の矛先を向けています。
彼らは、米国オバマ大統領のプラハ演説のレトリックに欣喜雀躍はしても、
今年の米国国防報告における中国の記述が昨年よりも極端に減少して
その危険性に目が閉ざされ、融和的に変質した意味を理解できないのです。
それは、北朝鮮の核能力とミサイル性能が向上するにつれて
米国が北の核兵器保有を黙認する政策に転じたように、
中国の軍事力増大に対しても、
米国がその身勝手な行動を抑制する意思を減退させたことを示しています。
韓国の核武装発言もこの文脈の中の出来事だと見なければなりません。
憲法平和主義の自縄自縛に陥ったわが国は、
一日も早くこのように冷厳な現実に目覚めて、
あなた方の示された強い精神と行動を取り戻さない限り、
私たちの主権と独立が侵害されても身をやつすしかありません。
平和主義こそがわが国の平和を脅かしているとは、
何という皮肉でありましょうか。
学校で「平和教育」を受けてから幾星霜、
私たちは国際情勢の現実を認識するほどに、
それが幻想であったことに気づきました。
そしてあなた方が備えられていた志が、
いかに貴重であったかを知りました。
ひと頃盛り上がりを見せた反核運動が、
社会主義国の核兵器の善悪を巡って争い、そして分裂したことからは、
その運動が本当にすべての核兵器を廃絶させるためのものではなく、
見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かない悪弊に
陥っていたことがわかります。
彼らは、わが国が取るべき方策を妨害しこそすれ、
肝心の核兵器を開発、保有する外国を自らの主張に
沿わせたことがあったでしょうか?
旧ユーゴや南スーダン、エリトリア、東チモールなど、
現代世界は一つ国家の内部で価値観を共有する民族が集結して
分離独立を求めて争い、分割国境が確保されたときに
安定化するという事実が現出してきました。
国家は統合されるどころか分裂し、数は逆に増えているのです。
この状況の何処に「世界市民」などが存在するのでしょうか。
広島平和公園の碑文に刻まれた「あやまち」が
「世界市民」のあやまちだ、との主張は詭弁でした。
犠牲になったあなた方の、
誰一人としてあやまちなどを犯してはおられません。
当時の国際法を見れば、誰が戦争犯罪者かは明らかです。
だれが原爆投下を命令したのか、その名前も私たちは知っています。
戦勝国に、不当な根拠で罪科を問われた日本人は、
東京、横浜を始めアジア各地で1000名有余が処刑されたにも関わらず、
彼の地では誰も処罰されることはありませんでした。
死に臨んで、刀をくれと叫んだ少年の気持ちを、
兵隊さん仇をとってくれ、と懇願された人の気持ちを、
黙々と復興への努力をし続けた人々の思いを、志を、
私たちは受け継ぐことをここに誓います。
占領時代に恣意的に作られた物語には左右されません。
絶対に・・・。
さもなければ、私たちは三度理不尽な惨禍を受ける危険を避けることは出来ません。
私たちは、虚構の「平和教育」から覚め、
幻想の核廃絶運動に身を委ねることなく、
世界の大勢と祖国の現状を見据えて進みます。
そして改めて宣言します。
「あやまちは繰り返えさせませんから................」と。
平和と安全を求める被爆者たちの会
平成23年 私たちの平和宣言
平成23年8月6日 広島
66年前の今日(きょう)、非道なる原爆攻撃は夥(おびただ)しい無辜(むこ)の民(たみ)を一瞬にして殺傷し、街は灰燼と化しました。突然に絶たれた命、苦痛の最期(さいご)を遂げた命、これを思えば今なお滂沱(ぼうだ)の涙を拭(ぬぐ)うことも叶(かな)いません。辛くも生き延び、なおも心身の深い傷と、明日知れぬ恐怖に慄(おのの)かれた方々・・・。皆様はあの惨状(さんじょう)を、悲嘆(ひたん)と憎悪を、秩序整然たる態度で耐え忍び、希望に向かって手を携え復興に邁進(まいしん)されたのです。爾来(じらい)人々は渾身の努力を傾け、我が国は世界屈指の技術力を誇る主要な経済大国の地位を占め、私たちは平穏な日々を送れるようになりました。
ここに改めて深い鎮魂と感謝の心を捧げます。
しかし、平穏は破られました。3月11日の大地震(おおじしん)と大津波(おおつなみ)は、営々として築かれてきた東北地方の多くの街を、故郷(ふるさと)を、一瞬のうちに喪失(そうしつ)させ、3万有余の犠牲者と50万人余(よ)の避難民を生みました。名状(めいじょう)しがたい被災地の惨状は、あの当時の広島の姿と重なります。
遺体収容に当たった自衛隊や警察官は、「傷つき汚れた遺体を少しでもきれいにして家族に返したい」という想いを込めて、自分の家族を扱うように一体一体手で洗いました。
波に消え、離れ離れになった数多くの母と子、そして家族。天国で再び絆が結ばれんことを・・・。
被曝の危険を身に受けたハイパーレスキュー隊の働きは、放射能の放出を大きく抑制しました。
余震の中で避難に遅れた人の背中を押し、急がせ、自らは波に呑(の)まれた警察官がいました。避難を呼掛け続け、マイクを持ったまま命を絶たれた若い女性の姿は、中立条約を破った不法な軍事攻撃に晒(さら)されながら刻々と事態を知らせ、最後に「日本(にっぽん)の皆様さようなら」と打電して絶命した樺太(からふと)真岡(もおか)郵便局の女性を思い起こさせました。
避難した人々は、乏しい物資を分かち合い、助け合い、老幼を労(いた)わり、整然と列を作って物資の分配を受けました。
原爆の時、非常呼集されて救助に当たった軍人や警察官、医師と看護婦、公務員、自らも被災しながらわが身を顧(かえり)みず、力を振り絞って救援に参じた民間の人々と、今年の災害で家族を失っても、救助活動に挺身(ていしん)した『自衛隊、警察、消防、海上保安庁、国や自治体や民間の人々』の献身的努力、そして避難者たちの姿は、時を隔(へだ)てても変わらない日本人(にっぽんじん)の誇り高き不屈の精神の発露(はつろ)でした。
66年前のあの時の皆様が、「秩序整然たる態度はわが国人(くにびと)の範(はん)とするに足る」と隣国から賞賛されたのと同じように、今の同胞達の冷静沈着、凛(りん)とした行動は、諸外国の人々を驚嘆(きょうたん)させました。灼熱(しゃくねつ)の原爆が皆様の心にまでは届かなかったように、凍える大波は同胞の心までは流せなかったのです。皆様の高き心は、時を経ても失われてはいませんでした。
あの当時を生きた皆様は、どの国の力も借りずに惨禍(さんか)に立ち向かわれたのでしたね。
私たちはこの震災で、百を超える諸国から救援を受けました。
原爆で全身に火傷(やけど)を負い、白い薬で塗り固められた少年が「アメリカの馬鹿(ばか)やろう」と言って死にました。そのアメリカが、今度は誰も真似のできない活動をしたのです。瓦礫に覆われた仙台空港を瞬くうちに修復して大型輸送機を飛ばし、各地に物資を届け、自衛隊の車両を運搬して、我が国の活動を根底から支えました。取り残された島に物資を運んだ艦艇では、艦長や将兵が、持てる私物を下着まで供出して被災者を救いました。彼ら無くして迅速な救援活動は危うかったのです。「トモダチ」作戦は、『くやしいけれど立派』でした。
少年よ許し給え。今、私たちはアメリカに「ありがとう」と言います。そして、諸国の人々よ、心からありがとう。
しかし、一旦目を外に転じれば、東の津波とは無関係に、北の海にある我が大地に彼(か)の国の要人が踏み込み、西の海では隣国の艦船の撃沈と人々の暮らす島への突然の砲撃で緊張は高まりました。南の海では我が艦艇に漁船が突撃し、日本(にっぽん)の主権を犯(おか)す波がひたひたと迫っています。三つの波は、忌(い)まわしい核兵器を背景に、武威(ぶい)を押し立てた人為の波です。祖国は今、危機の中にあります。私たちは『四方(よも)の海に波風(なみかぜ)の立ち騒ぐ』ことを決して望みませんが、迫り来る国の微笑に幻惑された「核廃絶」の呼掛けだけでは、武威(ぶい)の波頭(はとう)を押し留めることはできません。それは、さらに遠い南の海の現実をみれば明らかです。同胞よ、厳しい現実から目を逸(そ)らす勿(なか)れ。夢の言葉は今は要(い)らない。祖国の平和と、自由と繁栄のために何をなすべきかを深く思考せよ。三度目の核の惨禍を防ぐ手段を備えよ。私たちは万国の法の認めるあらゆる実効的な努力と行動を続けることだけが、それを可能にすると信じます。
現政府の要路(ようろ)にある方々に求めます。南の海の真実を同胞に知らしめた人を罪人(つみびと)にする愚かさを止(や)めて下さい。『情(じょう)の激するままに事を捻(ね)じ曲げ、時局を乱し、内輪で争い、為に大道(だいどう)を誤り、信義を世界に失うことを自ら戒(いまし)め』て下さい。被災者の苦難の日々を分かち合い、雄々(おお)しく津波に立ち向かった者が希望を捨てることなく、放射線から逃れた人々が一日も早く故郷に戻れるように、遠い先の夢ではなく、今の現実を基にした実効的な政策を出して下さい。
それが出来ないのなら、すみやかに身を引くべきです。
最後に、ここに眠る皆様方にお願いします。災害で犠牲になった幾多(いくた)の魂を、勇気ある者として皆様方の仲間に入れて下さい。残った私たちは、皆様方が命をもって与えて下さった教訓を糧(かて)に、身をもって示された足跡(そくせき)を手本にして、再び祖国を復興させることを誓います。皆様方にまだ「安らかに」とは言えない我が身を恥じますが、「どうか見守って下さい。過ちは繰り返させませんから」
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
平成22年 私たちの平和宣言
広島市平和記念式典で読まれない もう一つの平和宣言
ここに眠る皆様に謹んで申し上げます。65年前のあの日、火事を避けて太田川の河原で見た現実はこの世のほかの風景でした。広島市の惨状は大戦で被害を受けた他のどの地にも増して悲惨な光景でした。その日からわずか20日後の記録があります。
夥(おびただ)しい人の誰も泣かない。だれも感情を抑え、阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)の気配はどこにもない。黙って静かに死んでいく人達、ひどい火傷の負傷者の寂(じゃく)として静かな姿に心打たれる。水をのみ、握り飯(めし)を頬(ほお)ばってはっきりと名を告げて息を引き取った少年勤労学徒。死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐。骸(むくろ)になった幼い妹を背負い、直立不動で焼き場に立つ少年。
あなた方はどんな貴族よりも高い精神の中にいたのですね。中華民国は、日本破れたりとはいえ、秩序整然たる態度はわが国人(くにびと)の範(はん)とするに足る、と賞賛しました。
原爆はあなた方の心にまでは届かなかったのです。私たちはそれを誇りとします。
し かし、あなた方はこれが犯罪的で理不尽な攻撃であることを知っていました。外国人特派員を案内した日本人は断固として、「広島の住人は君達を憎悪してい る」と言ったのです。その言葉は生き残った人々の眼にも顕れていました。それでも、嘆きと憎悪の日を希望の日に変え、互いに助け、互いに労わり、手を携え て復興に邁進されたのです。
多くは斃(たお)れ、別の多くは永らえ、新しい命を育(はぐく)み、街は見事に蘇りました。私たちは今なお、あなた方の力と心によって生かされています。
思えば、我が国人(くにびと)は千数百年にわたり、時来(きた)れば御社(みやしろ)を壊し、また作り、そして精神もまた、蘇ってきたのです。広島も同じです。古(いにしえ)に海を越えてやって来た数多(あまた)の神々もそれぞれにその所を得て先祖たちと溶け合い、懐深い心を作りました。それでも人の生きる営みは時に争いを起し、猛(たけ)き者もやがては滅びました。この姿に、人々は千年も前に悟ったのです。永遠に続くものは無いと。消えかつ結ぶ泡(うたかた)の命の、浅い夢に酔うことはないと。
東から吹き寄せた風は束の間の300年の平穏を破り、父祖たちは荒ぶる世界に直面しました。そして様々な人たちの様々な故郷(ふるさと)は取り、あるいは取られ、ついにあの日が来たのです。
私たちは矛(ほこ)を収めましたが荒ぶる世界はなおも続きました。世界の東西に壁が張り巡らされました。時の流れの中で恩讐を超えて、この国はあなた方を苦しめた側に立ちました。そして豊かさを得ました。しかし、あなた方の、あの静かなる誇りと忍耐や高い精神は忘れられてきています。
20年前、西方では自由の風が壁を壊しました。古人(いにしえびと)の悟りは正しかったのです。近くの壁の力は弱くなり、勃興した新しい猛(たけ)き力は暖気と冷気の混ざり合った渦となり、我が国に吹き寄せています。核の国は増え続け、核の知識は広がりました。不気味な隣国の増大する核の脅威に私たちは曝(さら)されるようになりました。
未だなお、奪われたままの故郷(ふるさと)があります。奪われたままの同朋(どうほう)がいます。奪われるかもしれない故郷(ふるさと)もあります。今、我が国の苦難は深まっているのです。これに慄(おのの)き、避けんとする人々は茫漠(ぼうばく)たる抽象の彼方に視界を送り、観衆の声援を集めることに力を費やし、照らし出すべき光の焦点を定めようとはしていません。しかし、声援はあっても、その光の先には未だ想像以外のどんな実像も結ばれていません。
その一方で、歩むべき足元の道は闇に隠れました。そしてこの国では、足下の道を拓(ひら)くどころか、そこに光を当てることすら忌避されるようになりました。私たちが苦難を乗り越えて生きるためには、今歩むべき道筋をしっかりと見定めなければなりません。風の前の塵であってはならないのです。
私 たちは決意しました。例え忌避されようとも、闇にもまた光を当てなければならないと。遠くも、近くも、そしてどんなに苦しくとも照らし出さなければならな いのです。万国の法は核と争いの縮小を求めています。さらにその実現のために、声援だけではない努力も求めています。直接の脅威に曝(さら)される我が国は、万国の法の認める価値をともにする国の取る行動と歩みを合わせ、あらゆる努力が傾けられなければなりません。今日平和であることは、明日の平和を保証しないのです。明日に連なる実効的な努力の継続だけが、永続する平和への扉を開くのだと確信します。
私たちはまだ、あなた方に「安らかに眠ってください」と言える資格がありません。今の私たちには、世界と溶け合った古(いにしえ)の心に源流をもつ、その賞賛すべき高い精神を必ずしも受け継いではいないからです。しかし、私たちは忍耐を持って理不尽な死を迎える直前、「兵隊さん、仇(かたき)を取って下さい」と言われた人のいたことを忘れません。あなた方は今もなお、私たちと共にあります。どうか見守ってください。あなた方の高き心が私たちの精神に満たされたとき、そして継続する努力が日々の平和を繋(つな)ぐことが出来たとき、私たちの仇(かたき)討ちは終わります。その暁(あかつき)には、改めてあなた方に申し上げるでしょう。
「安心してお休み下さい。過ちは繰り返させませんから」
式典で読まれないもう一つの平和宣言
広島 平成22年8月6日
「平和と安全を求める被爆者たちの会」
代表 秀 道広 (被爆二世)
事務局長代理 池中美平 (被爆二世)